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正法眼蔵随聞記 / 巻二

夜話に云く、今此の國の人は多分或ひは行儀につけ、或ひは言語につけ、善悪是非世人の見聞識知を思ふて、其の事をなさば人惡しく思ひてん、其の事は人善しと思ひてんと、乃至向後までをも執するなり、是れ全く非なり、世間の人は必ずしも善とすることあたはず、人はいかにも思はゝ思ヘ、狂人とも云へ、我が心に佛道に順じたらんことをば作し、佛法に順ぜずんば行せすして、一期をも過ごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦るしかるべからず、遁世と云は世人の情を心にかけざるなり、たゞ佛祖の行履菩薩の慈悲を學して、諸天善神の冥に照す所を慚愧して、佛制に任せて行じきもてゆかば、一切苦るしかるまじきなり、

新字:夜話に云く、今此の国の人は多分或ひは行儀につけ、或ひは言語につけ、善悪是非世人の見聞識知を思ふて、其の事をなさば人悪しく思ひてん、其の事は人善しと思ひてんと、乃至向後までをも執するなり、是れ全く非なり、世間の人は必ずしも善とすることあたはず、人はいかにも思はゝ思ヘ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらんことをば作し、仏法に順ぜずんば行せすして、一期をも過ごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦るしかるべからず、遁世と云は世人の情を心にかけざるなり、たゞ仏祖の行履菩薩の慈悲を学して、諸天善神の冥に照す所を慚愧して、仏制に任せて行じきもてゆかば、一切苦るしかるまじきなり、

書き下し

夜話に云く、今此の国の人は多分或ひは行儀につけ、或ひは言語につけ、善悪是非世人の見聞識知を思ふて、其の事をなさば人悪しく思ひてん、其の事は人善しと思ひてんと、乃至向後までをも執するなり、是れ全く非なり、世間の人は必ずしも善とすることあたはず、人はいかにも思はゝ思ヘ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらんことをば作し、仏法に順ぜずんば行せすして、一期をも過ごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦るしかるべからず、遁世と云は世人の情を心にかけざるなり、たゞ仏祖の行履菩薩の慈悲を学して、諸天善神の冥に照す所を慚愧して、仏制に任せて行じきもてゆかば、一切苦るしかるまじきなり、

現代語訳

夜話に言われた。今この国の人の多くは、あるいはふるまいにつけ、あるいは言葉につけ、善悪是非について世の人の見聞や知識を思って、その事をなせば人は悪く思うだろう、その事は人がよいと思うだろうと、行く末のことまでも執着するのである。これはまったく非である。世間の人は必ずしも善を善とすることができない。人はどうとでも思うなら思え、狂人とも言え、自分の心で仏道に順ずるであろうことをなし、仏法に順じないならば行わずに一生を過ごすならば、世間の人がどう思おうとも、苦しいことではない。遁世というのは、世の人の思わくを心にかけないことである。ただ仏祖のふるまいと菩薩の慈悲を学んで、諸天善神が密かに照らすところを慚愧して、仏の制に任せて行っていくならば、いっさい苦しくはあるまい。

解説

遁世を、住む場所ではなく、人の思わくを心にかけないことだと定義し直している。世間の人は必ずしも善を善と見分けられない、という一句が根拠になっており、多数の判断を基準にしない理由がそこにある。代わりに置かれるのが諸天善神の見る目で、恥じる相手を世間から移すという、この書に繰り返し出てくる型である。

この章句が説くこと

遁世人目世情慚愧仏制菩薩

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