正法眼蔵随聞記 / 巻二
夜話に云く、其實內德なふして人に貴びらるべからず、此の國の人は眞實の內德をば知らずして、外相を以て人を貴とぶほどに、無道心の學人は、卽ち惡道にひきおとされて、魔の眷屬となるなり、人に貴とびられんは安き事なり、中々身を捨て世にそむく由を以て爲すは、外相ばかりの假令なり、只なにともなく世間の人の樣にて、內心を調へもてゆくが是れ實の道心者なり、
新字:夜話に云く、其実内徳なふして人に貴びらるべからず、此の国の人は真実の内徳をば知らずして、外相を以て人を貴とぶほどに、無道心の学人は、即ち悪道にひきおとされて、魔の眷属となるなり、人に貴とびられんは安き事なり、中々身を捨て世にそむく由を以て為すは、外相ばかりの仮令なり、只なにともなく世間の人の様にて、内心を調へもてゆくが是れ実の道心者なり、
書き下し
夜話に云く、其実内徳なふして人に貴びらるべからず、此の国の人は真実の内徳をば知らずして、外相を以て人を貴とぶほどに、無道心の学人は、即ち悪道にひきおとされて、魔の眷属となるなり、人に貴とびられんは安き事なり、中々身を捨て世にそむく由を以て為すは、外相ばかりの仮令なり、只なにともなく世間の人の様にて、内心を調へもてゆくが是れ実の道心者なり、
現代語訳
夜話に言われた。その実、内なる徳がないのに人に貴ばれてはならない。この国の人は真実の内なる徳を知らずに、外相をもって人を貴ぶので、道心のない学人はすぐに悪道に引き落とされて、魔の眷属となるのである。人に貴ばれるのはたやすい事である。かえって、身を捨て世に背くことを見せてなすのは、外相ばかりのかりそめである。ただ何ということもなく世間の人のようであって、内心を調えていくのが、これが実の道心者である。
解説
外相で人を貴ぶ風土の中では、貴ばれること自体が危険になるという見立てである。世を捨てた姿を見せることも外相の一種にすぎないとされ、逆に、外見は世間の人と変わらずに内を調えるほうが実だとされる。目立たないことを積極的に勧めており、前の巻から続く陰徳の主題がここで人物像として描かれている。
この章句が説くこと
内徳外相名聞道心魔陰徳
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻二此の土の仏法者、道心者を立る人の中にも、身をすつるとて、人はいかにも見よと思ひて、ゆへ無く身をわるくふるまひ、或は亦世を執せぬとて、雨にもぬれながら行きなんどするは、内外ともに無益なるを、世間の人はすなはち此らを貴き人かな、世を執せぬなんどゝ思へるなり、中に仏制を守りて、戒律の儀をも存じ、自行化他仏制にまかせて行ずるをば、かへりて名聞利養げなるとて、人も管せざるなり、夫れが却て吾がためには仏教にも随ひ、内外の徳も成ずるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば古人の云く、内ち空しふして外したがふと、云心は、内心は我心なふして、外相は他に随がひもてゆくなり、我が身我が心と云ふ事を一向に忘れて、仏法に入て仏法のおきてに任かせて、行じもてゆけば、内外ともによく今も後もよきなり、仏法の中もそぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは非なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二夜話に云く、今此の国の人は多分或ひは行儀につけ、或ひは言語につけ、善悪是非世人の見聞識知を思ふて、其の事をなさば人悪しく思ひてん、其の事は人善しと思ひてんと、乃至向後までをも執するなり、是れ全く非なり、世間の人は必ずしも善とすることあたはず、人はいかにも思はゝ思ヘ、狂人とも云へ、我が心に仏道に順じたらんことをば作し、仏法に順ぜずんば行せすして、一期をも過ごさば、世間の人はいかに思ふとも、苦るしかるべからず、遁世と云は世人の情を心にかけざるなり、たゞ仏祖の行履菩薩の慈悲を学して、諸天善神の冥に照す所を慚愧して、仏制に任せて行じきもてゆかば、一切苦るしかるまじきなり、