正法眼蔵随聞記 / 巻二
法語等を書くにも、文章におほせて書んとし、韻聲差へば礙へられなんとするは知りたる咎なり、語言文章はいかにもあれ、思ふ儘の理を順々と書きたらんは、後來も文はわろしと思ふとも、理だにも聞わたらば、道のためには大切なり、餘の才學も斯くの如し、
新字:法語等を書くにも、文章におほせて書んとし、韻声差へば礙へられなんとするは知りたる咎なり、語言文章はいかにもあれ、思ふ儘の理を順々と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞わたらば、道のためには大切なり、余の才学も斯くの如し、
書き下し
法語等を書くにも、文章におほせて書んとし、韻声差へば礙へられなんとするは知りたる咎なり、語言文章はいかにもあれ、思ふ儘の理を順々と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞わたらば、道のためには大切なり、余の才学も斯くの如し、
現代語訳
法語などを書くにも、文章に重きを置いて書こうとし、韻の響きが違えば妨げになると思うのは、知っていることの咎である。言葉や文章はどうであれ、思うままの理を次々と書いたなら、後から来る者も、文は下手だと思うとしても、理さえ伝わるなら、道のためには大切である。他の才学もこのようである。
解説
前条で述べた癖が、書く側に回ったときにどう現れるかを示す。整えようとする力が、書くべきことを妨げる。これを知っていることの咎と呼ぶのが鋭く、学識が短所として働く場面を名指ししている。文が下手でも理が伝われば足りるという基準は、この書物そのものの成り立ちにも通じている。
この章句が説くこと
文章理法語才学咎表現
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孫子・始計篇将吾が計を聴きてこれを用うれば必ず勝つ。これを留む。聴かずしてこれを用うれば必ず敗る。これを去る。
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『宋名臣言行録』後集巻一・韓琦公、諫官爲ること三年。存する所の諫稿、歛めて之を焚き、以て古人慎密の義に效わんと欲す。然れども人主從諫の美を見るに以て無きを恐る。乃ち七十餘章を集めて三巻と爲し、諫垣存稿と曰う。自ら首に序す。大畧に曰く、諫は理の勝るを主とし、而して至誠を以て之を將うと。
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、学道の人教家の書籍をよみ、外典等を学すべからず、見るべくんば語録等を見るべし、其の余はじばらく是を置べし、近代の禅僧頌を作くり、法語を書かんがために、文筆等をこのむ、是れ便ち非なり、頌につくらずとも、心に思はんことを書出し、文筆とゝのはずとも法門をかくべきなり、是をわるしとて見ざらんほどの無道心の人は、よく文筆を調べていみじき秀句ありとも、只言語ばかりを翫んで理を得べからず、
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『正法眼蔵随聞記』巻二我れ幼少の時外典等を好み学しき、夫れがのち入宋伝法するまでも、内外の書籍を開き、方語を通ずるまでも、大切の用事、亦世間のためにも尋常ならざる事なり、俗なんども尋常事に思ひたる、かたかたの用事にてありけれども、今ま熟ら思ふに、学道のさはりにてあるなり、只聖教を見るとも、文に見ゆる所の理を次第に心得てゆかば其の道理を得つべきなり、然るに先つ文章を見、対句韻声なんどを見て、よきぞあしきぞと心に思ふて、後に理をば心得るなり、然あれば、中々知らすして、初めより道理を心得て行かばよかるべきなり、