墨子 / 大取
以故生,以理長,以類行也。者。立辭而不眀於其所生,忘也。今人非道無所行,唯有强股肱,而不眀於道,其困也,可立而待也。夫辭以類行者也,立辭而不眀於其類,則必困矣。故浸滛之辭,其類在於鼓栗。聖人也,為天下也,其類在於追迷。或夀或卒,其利天下也指若,其類在譽石。一日而百萬生,愛不加厚,其類在惡害。愛二世有厚薄,而愛二世相若,其類在蛇文。愛之相若,擇而殺其一人,其類在阬下之鼠。
新字:以故生,以理長,以類行也。者。立辞而不明於其所生,忘也。今人非道無所行,唯有強股肱,而不明於道,其困也,可立而待也。夫辞以類行者也,立辞而不明於其類,則必困矣。故浸淫之辞,其類在於鼓栗。聖人也,為天下也,其類在於追迷。或寿或卒,其利天下也指若,其類在誉石。一日而百万生,愛不加厚,其類在悪害。愛二世有厚薄,而愛二世相若,其類在蛇文。愛之相若,択而殺其一人,其類在阬下之鼠。
書き下し
故を以て生じ、理を以て長じ、類を以て行くなり。辭を立てて其の生ずる所に眀らかならざるは、忘なり。今、人、道に非ざれば行く所無し。唯だ强き股肱有るも、道に眀らかならざれば、其の困しむや、立ちて待つ可きなり。夫れ辭は類を以て行く者なり。辭を立てて其の類に眀らかならざれば、則ち必ず困しまん。故に浸滛の辭は、其の類、鼓栗に在り。聖人や、天下の為にするや、其の類、追迷に在り。或いは夀く或いは卒わるも、其の天下を利するや指、若し。其の類、譽石に在り。一日にして百萬生ずるも、愛は厚きを加えず。其の類、惡害に在り。二世を愛するに厚薄有るも、二世を愛するは相い若し。其の類、蛇文に在り。之を愛すること相い若きも、擇びて其の一人を殺す。其の類、阬下の鼠に在り。
現代語訳
主張は故によって生まれ、理によって育ち、類によって進む。主張を立てながらそれがどこから生まれたかに明るくないのは、忘れているということである。いま人は道がなければ行くところがない。手足が強くても道に明るくなければ、行き詰まるのは立ったまま待っていられるほどすぐである。主張は類によって進むものである。主張を立てながらその類に明るくなければ、必ず行き詰まる。だからじわじわ広がる言葉は、その類が鼓栗にある。聖人が天下のためにするのは、その類が追迷にある。長生きしても早く終わっても、天下を利することは同じである。その類は譽石にある。一日に百万人が生まれても、愛は厚さを増さない。その類は惡害にある。二つの世を愛するのに厚薄があっても、二つの世を愛することは同じである。その類は蛇文にある。同じように愛していても、選んでその一人を殺すことがある。その類は阬下の鼠にある。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。

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