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正法眼蔵随聞記 / 巻二

然あれば古人の云く、內ち空しふして外したがふと、云心は、內心は我心なふして、外相は他に隨がひもてゆくなり、我が身我が心と云ふ事を一向に忘れて、佛法に入て佛法のおきてに任かせて、行じもてゆけば、內外ともによく今も後もよきなり、佛法の中もそぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは非なり、

新字:然あれば古人の云く、内ち空しふして外したがふと、云心は、内心は我心なふして、外相は他に随がひもてゆくなり、我が身我が心と云ふ事を一向に忘れて、仏法に入て仏法のおきてに任かせて、行じもてゆけば、内外ともによく今も後もよきなり、仏法の中もそぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは非なり、

書き下し

然あれば古人の云く、内ち空しふして外したがふと、云心は、内心は我心なふして、外相は他に随がひもてゆくなり、我が身我が心と云ふ事を一向に忘れて、仏法に入て仏法のおきてに任かせて、行じもてゆけば、内外ともによく今も後もよきなり、仏法の中もそぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは非なり、

現代語訳

であるから古人は言った、内は空しくして外は随う、と。言う心は、内心には自分の心がなく、外相は他に随っていくということである。自分の身、自分の心ということを一向に忘れて、仏法に入り、仏法の掟に任せて行っていけば、内も外もともによく、今も後もよいのである。仏法の中でも、むやみに身を捨て世を捨てるからといって、捨てるべきでない事を捨てるのは非である。

解説

内を空しくし、外を他に随わせるという二方向の言い方で、前条の人物像を定義している。内に自分の判断を立てず、外では周囲の作法に随う。これは受け身に見えるが、我を先に立てないという一点で貫かれている。最後に、捨てるべきでないものまで捨てるのは非だと言い添え、極端に振れることを戒めている。

この章句が説くこと

内外無我随順仏法捨てる古人

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