正法眼蔵随聞記 / 巻二
亦示して云く、隋の文帝の云く、密々に德を修して飽けるをまつ、言ふ心はよき道德を修して、あけるをまちて、民をいつくしうするとなり、僧猶を是に及ばずんば、もつとも用心すべきなり、只內に道業を修すれば、自然に道德外にあらはれて、人に知れんことを期せず望まずして、只もつはら佛教にしたがひ、祖道に隨がひゆけば、人自づから道德に歸するなり、こゝに學人の錯まり出で來るやうは、人にたつとばれ、財寶いで來るを以て、道德のあらはれたると自からも思ひ、人も知り思ふなり、是れ卽ち天魔波旬のつきたると心にしりて、最も思量すべし、教の中に是は魔の所爲と云ふなり、
新字:亦示して云く、隋の文帝の云く、密々に徳を修して飽けるをまつ、言ふ心はよき道徳を修して、あけるをまちて、民をいつくしうするとなり、僧猶を是に及ばずんば、もつとも用心すべきなり、只内に道業を修すれば、自然に道徳外にあらはれて、人に知れんことを期せず望まずして、只もつはら仏教にしたがひ、祖道に随がひゆけば、人自づから道徳に帰するなり、こゝに学人の錯まり出で来るやうは、人にたつとばれ、財宝いで来るを以て、道徳のあらはれたると自からも思ひ、人も知り思ふなり、是れ即ち天魔波旬のつきたると心にしりて、最も思量すべし、教の中に是は魔の所為と云ふなり、
書き下し
亦示して云く、隋の文帝の云く、密々に徳を修して飽けるをまつ、言ふ心はよき道徳を修して、あけるをまちて、民をいつくしうするとなり、僧猶を是に及ばずんば、もつとも用心すべきなり、只内に道業を修すれば、自然に道徳外にあらはれて、人に知れんことを期せず望まずして、只もつはら仏教にしたがひ、祖道に随がひゆけば、人自づから道徳に帰するなり、こゝに学人の錯まり出で来るやうは、人にたつとばれ、財宝いで来るを以て、道徳のあらはれたると自からも思ひ、人も知り思ふなり、是れ即ち天魔波旬のつきたると心にしりて、最も思量すべし、教の中に是は魔の所為と云ふなり、
現代語訳
また示して言われた。隋の文帝が言った。密かに徳を修めて、満ちるのを待つ、と。言う心は、よい道徳を修めて、満ちるのを待って民をいつくしむということである。僧がなおこれに及ばないのであれば、もっとも用心すべきである。ただ内に道の業を修めるならば、自然に道徳が外に現れて、人に知られることを期待せず望まずして、ただもっぱら仏の教えに従い、祖師の道に随っていけば、人は自ずから道徳に帰するのである。ここに学人のあやまちが出てくるさまは、人に貴ばれ、財宝が出てくることをもって、道徳が現れたと自分でも思い、人も知り思うのである。これはすなわち天魔波旬が取りついたのだと心に知って、もっともよく思量すべきである。教えの中に、これは魔のしわざであると言うのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻二いまだ聞かず三国の例、財宝にとみ、愚人の帰敬をもつて道徳とすべきことを、道心者と云ふは昔しより三国みな貧にして、身をくるしくし、一切を省約して、慈あり道あるをまことに行者と云ふなり、徳のあらはるゝと云も、財宝にゆたかに、供養にほこるを云にあらす、徳の顕はるゝに三重あるべし、先つは其の人其の道を修するなりと知らるゝなり、次には其の道を慕ふ者いで来る、後には其の道をおなじく学し同じく行ずる、是を道徳のあらはるゝと云ふなり、
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『長短経』道徳夫れ兵に出だすべからざる者三あり。国に和せざれば、以て軍を出だすべからず。軍に和せざれば、以て陣を出だすべからず。陣に和せざれば、以て戦いを出だすべからず。故に孫子曰く、一に曰く道。道なる者は、人をして上と意を同じくせしむる者なり。故に之と死すべく、之と生くべくして、人危うきを畏れず。〔危は、疑なり。主上素より仁を下に施すこと有れば、則ち士は能く前に致して敵に赴き、故に与に存亡の難に処りて、傾危の敗を畏れざるを言う。晋陽の囲み、竈を沈めて蛙を生ずるも、民に叛疑無きが若きなり。〕
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『論語と算盤』理想と迷信・道徳は進化すべきか道徳というものは、他の理学化学のように、だんだん進化して行くものであるか、つまり道徳は文明に従って進化すべきものであるかというのである。ちょっと了解し難い言葉であるが、前にも言うごとく、宗教信念をもって道徳を堅固にするがよいか、さなくとも論理の上から徳義心は維持出来るものであるというように、追々その解釈が進化し来たりはせぬか。けだし道徳という文字は、支那古代の唐虞の世より、王者の道というのがすなわち道徳の語原である。ゆえに道徳という文字はよほど古い。
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『酔古堂剣掃』集豪・寂寞一時、淒涼萬古道德に棲守する者は、寂寞たること一時。 權變に依阿する者は、淒涼たること萬古。
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『呻吟語』内篇・修身・道德の實を潛かに修む文名・才名・藝名・勇名は、人盡く讓り得過ぐ。惟だ是れ道德の名は、則ち妒む者眾し。文無く才無く藝無く勇無きは、人盡く謙り得起こる。惟だ是れ道德の名無きは、則ち愧づる者眾し。君子は道德の實を以て潛かに修め、道德の名を以て自ら掩ふ。
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『茶の本』第三章 道教と禅道・聖人はよく世とともに推移す道教でいう絶対は相対であることは、すでに述べたところであるが、倫理学においては道教徒は社会の法律道徳を罵倒した。というのは、彼らにとっては正邪善悪は単なる相対的の言葉であったから。定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない。屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す」。われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして、行儀正しくせよと教えられる。

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