正法眼蔵随聞記 / 巻二
亦云く、當世の人多く造像起塔等の事を佛法興隆と思へり、是れ亦非なり、直饒ひ髙堂大觀、玉をみがき金をのべたりとも、是れに依て得道の者あるべからず、只在家人の財寶を佛界に入れて、善事をなす福分なり、亦小因大果を感ずることあれども、僧徒の此の事をいとなむは佛法興隆にはあらざるなり、たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一と時の坐禪をも行せんこそ、誠の佛法興隆にてあらめ、
新字:亦云く、当世の人多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり、是れ亦非なり、直饒ひ高堂大観、玉をみがき金をのべたりとも、是れに依て得道の者あるべからず、只在家人の財宝を仏界に入れて、善事をなす福分なり、亦小因大果を感ずることあれども、僧徒の此の事をいとなむは仏法興隆にはあらざるなり、たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一と時の坐禅をも行せんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ、
書き下し
亦云く、当世の人多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり、是れ亦非なり、直饒ひ高堂大観、玉をみがき金をのべたりとも、是れに依て得道の者あるべからず、只在家人の財宝を仏界に入れて、善事をなす福分なり、亦小因大果を感ずることあれども、僧徒の此の事をいとなむは仏法興隆にはあらざるなり、たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一と時の坐禅をも行せんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ、
現代語訳
また言われた。当世の人の多くは、仏像を造り塔を建てることなどを仏法の興隆と思っている。これもまた非である。たとえ高い堂、大きな楼閣で、玉を磨き金を延べたとしても、これによって得道する者があるはずはない。ただ在家の人の財宝を仏の世界に入れて、善事をなす福分である。また小さな因で大きな果を感ずることはあっても、僧たちがこの事を営むのは仏法の興隆ではないのである。たとえ草庵や樹の下であっても、法門の一句をも思量し、一時の坐禅をも行ずることこそ、まことの仏法の興隆であろう。
解説
この章句が説くこと
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尚書・周官明王の政を立つるや、其の官のみならず、其の人のみす。
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『墨子』魯問子墨子曰く、曹公子を出だして宋に於いてす。三年にして反る。子墨子を睹て曰く、「始め吾れ子の門に游びしとき、短褐の衣、藿羮も朝に之を得れば則ち夕に得ず、鬼神を祭祀す。而して夫子の政を以て家、始めより厚し。家、厚きこと有りて謹んで鬼神を祭祀す。然り而して人徒、多く死し、六畜、蕃らず、身は病に湛む。吾れ未だ夫子の道の用う可きを知らざるなり」と。子墨子曰く、「然らず。夫れ鬼神の人に欲する所の者は多し。人の髙爵禄に處らば則ち以て賢に讓り、財多ければ則ち以て貧に分かつを欲す。夫れ鬼神、豈に唯だ擢季拑肺を之れ欲せんや。今、子は髙爵禄に處りて以て賢に讓らず、一の不祥なり。財多くして以て貧に分かたず、二の不祥なり。今、子、鬼神に事うるは、唯だ祭るのみ。而して曰く、『病、何自り至れるか』と。是れ猶お百門にして一門を閉じて、『盜、何從り入らん』と曰うがごときなり。是くの若くして福を求むるは、怪の鬼に於いて有らんや。豈に可ならんや」と。
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論語・顔淵篇子張問う、「士は何如なれば斯れ之を達と謂う可き。」子曰く、「何ぞや、爾の所謂達なる者は。」子張対えて曰く、「邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。」子曰く、「是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行いは違い、之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。」
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論語・公冶長篇子、公冶長を謂いて曰く、『妻すべし。縲絏(るいせつ)の中に在りと雖も、其の罪に非ず。』と。其の子を以て之に妻す。
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『塩鉄論』刺議篇文學曰く、正を以て人を輔くるを忠と謂い、邪を以て人を導くを佞と謂う。夫れ過ちを怫り善を納るる者は、君の忠臣、大夫の直士なり。孔子曰く、『大夫に爭臣三人有れば、無道なりと雖も、其の家を失わず』と。今子は宰士の列に處り、忠正の心無く、枉がれるを正す能わず、邪を匡す能わず、流れに順いて以て身を容れ、風に從いて以て上を說ばす。上の言う所は則ち茍くも聽き、上の行う所は則ち曲げて從う、影の形に隨い、響の聲に於けるが若し、終に是非する所無し。儒衣を衣、儒冠を冠して、而も其の道を行う能わざるは、其の儒に非ざるなり。譬えば土龍の若し、文章首目具わりて而も龍に非ざるなり。葶歷は菜に似て味殊なり、玉石相い似て類を異にす。子は孔氏の經を執り道を守るの儒に非ず、乃ち公卿面從の儒なり、吾が徒に非ざるなり。冉有季氏の宰と為りて之を附益す、孔子曰く、『小子鼓を鳴らして之を攻めて可なり』と。故に桀を輔くる者は智と為さず、桀の為に斂むる者は仁と為さず。/丞相史默然として對えず。