正法眼蔵随聞記 / 巻一
答て云く、然あり、故僧正自ら所立の義なり、既に懺悔を許す、亦是受戒すべし、逆罪なりとも、悔ゐて受戒せば授くべし、況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり
新字:答て云く、然あり、故僧正自ら所立の義なり、既に懺悔を許す、亦是受戒すべし、逆罪なりとも、悔ゐて受戒せば授くべし、況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の為には受戒せしむべきなり
書き下し
答て云く、然あり、故僧正自ら所立の義なり、既に懺悔を許す、亦是受戒すべし、逆罪なりとも、悔ゐて受戒せば授くべし、況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の為には受戒せしむべきなり
現代語訳
答えて言われた。そのとおりである。故僧正が自ら立てられた義である。すでに懺悔を許すのであるから、また受戒もさせるべきである。逆罪であっても、悔いて受戒するというなら授けるべきである。まして菩薩は、たとえ自分の身は破戒の罪を受けるとしても、他人のためには受戒させるべきなのである。
解説
前条の問いに正面から答え、栄西の立てた義を引いて受戒を認める。注目すべきは最後の一句で、授ける側が罪を負う可能性まで見込んだうえで、それでも他人のために授けよと言う。自分の潔白より相手の救いを先に置く判断であり、戒律をめぐる一連の問答が、規定の解釈から人をどう扱うかへ着地している。
この章句が説くこと
懺悔受戒菩薩逆罪破戒慈悲
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、実に懺悔すべし、受戒の時、許さゞることは且く抑止門とて抑ゆる義なり、亦上の文は破戒なりとも還得受せば、清浄なるべし、懺悔すれば清浄なり、未受に同からず、問て云く、七逆すでに懺悔を許さは、亦受戒すべきか如何ん、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが為に、未受戒の者に十重四十八軽戒を教へて読誦せしむべしと見たたり、亦下の文に、未受の前にして説戒すべからずと、此の二処の相違如何、答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒経を誦ずるは、猶是念経なり、故に来受者戒経を誦ぜんとす、彼が為に戒経を説かんこと答あるべからず、下の文に、利養の為のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり、今受戒の者に懺悔せしめん為には最も是を教ふべし、問て云く受戒の時は七逆の受戒を許さず、先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ、如何ん、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて、在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん、答て云く、誰か云ひし、破戒無道心なれと、只强て道心を発し、仏法を行ずべきなり、いかに況や持戒破戒を論せす、初心後心を分かたず、斉しく如来の福分を与ふとは見れたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見れず、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二時に門弟子等難じて云く、正しく是れ仏像の光なり、これを以て俗人に与ふ、仏物己用の罪如何ん、僧正の云く、誠に然り、但し仏意を思ふに、仏は身肉手足を割きて衆生に施こせり、現に餓死すべき衆生には、設ひ仏の全体を以て与ふるとも仏意に合ふべし、亦云く我れは此の罪に依て悪趣に堕すべくとも、只衆生の飢ねを救ふべしと云々、先達の心中のたけ、今の学人も思ふべし、忘るゝこと莫れ亦有る時、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一装問て云く、犯戒の語は受戒已後の所犯を云か、唯亦未受巳前の罪相をも犯戒と云べきか、如何ん、師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし、未受巳前所作の罪相をば、只、罪相罪業と云て、犯戒と云べからず、問て云く、四十八軽戒の中に、未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ、如何ん、答て云く、然らず、彼は未受戒の者今ま受戒せんとする時、所造の罪を懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒を授かりて犯し、後ち亦軽戒を犯するをも犯戒と云なり、以前所造の罪を犯戒と云にはあらず、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一此の如きの心を以てこそ、衆をも接し化をも宣ふべけれ、住持長老なればとて、乱に衆を領し、我が物に思ふて呵噴するは非なり、況や其人にあらずして、人の短処を云ひ他の非を謗るは非なり、能々用心すべきなり、他の非を見て悪しゝと思ふて、慈悲を以て化せんと思はゝ、腹立まじきやうに、方便して、傍ら事を云ふやうにて、こしらふべきなり、