正法眼蔵随聞記 / 巻一
問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を教へて讀誦せしむべしと見たたり、亦下の文に、未受の前にして說戒すべからずと、此の二處の相違如何、答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒經を誦ずるは、猶是念經なり、故に來受者戒經を誦ぜんとす、彼が爲に戒經を說かんこと答あるべからず、下の文に、利養の爲のゆゑに未受戒の前にして是を說ことを制するなり、今受戒の者に懺悔せしめん爲には最も是を教ふべし、問て云く受戒の時は七逆の受戒を許さず、先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ、如何ん、
新字:問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが為に、未受戒の者に十重四十八軽戒を教へて読誦せしむべしと見たたり、亦下の文に、未受の前にして説戒すべからずと、此の二処の相違如何、答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒経を誦ずるは、猶是念経なり、故に来受者戒経を誦ぜんとす、彼が為に戒経を説かんこと答あるべからず、下の文に、利養の為のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり、今受戒の者に懺悔せしめん為には最も是を教ふべし、問て云く受戒の時は七逆の受戒を許さず、先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ、如何ん、
書き下し
問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが為に、未受戒の者に十重四十八軽戒を教へて読誦せしむべしと見たたり、亦下の文に、未受の前にして説戒すべからずと、此の二処の相違如何、答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒経を誦ずるは、猶是念経なり、故に来受者戒経を誦ぜんとす、彼が為に戒経を説かんこと答あるべからず、下の文に、利養の為のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり、今受戒の者に懺悔せしめん為には最も是を教ふべし、問て云く受戒の時は七逆の受戒を許さず、先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ、如何ん、
現代語訳
問うて言った。今まさに受戒しようとするとき、以前に造った罪を懺悔するために、未受戒の者に十重四十八軽戒を教えて読誦させるべきだと見えます。またその下の文には、未受の者の前で説戒してはならないとあります。この二か所の食い違いはどうなのでしょうか。答えて言われた。受戒と誦戒とは別である。懺悔のために戒経を誦するのは、なお念経の類である。だから受戒に来る者が戒経を誦そうとするとき、その者のために戒経を説くことに差し支えはない。下の文は、利養のために未受戒の者の前でこれを説くことを制しているのである。今、受戒する者に懺悔させるためには、もっともこれを教えるべきである。問うて言った。受戒のときは七逆の者の受戒を許しません。先の戒の中には逆罪も懺悔すべきだと見えます、いかがですか。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻一装問て云く、犯戒の語は受戒已後の所犯を云か、唯亦未受巳前の罪相をも犯戒と云べきか、如何ん、師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし、未受巳前所作の罪相をば、只、罪相罪業と云て、犯戒と云べからず、問て云く、四十八軽戒の中に、未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ、如何ん、答て云く、然らず、彼は未受戒の者今ま受戒せんとする時、所造の罪を懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒を授かりて犯し、後ち亦軽戒を犯するをも犯戒と云なり、以前所造の罪を犯戒と云にはあらず、
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、実に懺悔すべし、受戒の時、許さゞることは且く抑止門とて抑ゆる義なり、亦上の文は破戒なりとも還得受せば、清浄なるべし、懺悔すれば清浄なり、未受に同からず、問て云く、七逆すでに懺悔を許さは、亦受戒すべきか如何ん、
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『正法眼蔵随聞記』巻一懐奘問て云く、叢林学道の儀式は百丈の清規を守るべきか、然あれば彼れはじめに受戒護戒を以て先とすと見れたり、亦今の伝来相承は根本戒をさつくとみれたり、当家の口訣面授にも、西来相伝の戒を学人にさづく、是便ち今の菩薩戒なり、然あるに今の戒経に日夜に是を誦ぜよと云へり、何ぞ誦ずるを捨てしむるや、
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『正法眼蔵随聞記』巻一問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて、在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん、答て云く、誰か云ひし、破戒無道心なれと、只强て道心を発し、仏法を行ずべきなり、いかに況や持戒破戒を論せす、初心後心を分かたず、斉しく如来の福分を与ふとは見れたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見れず、
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『正法眼蔵随聞記』巻一師云く、しかなり、学人最とも百丈の規縄を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり、昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て只管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる、古人行じおける処の行履皆深き心あり、私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、