正法眼蔵随聞記 / 巻一
答て云く、實に懺悔すべし、受戒の時、許さゞることは且く抑止門とて抑ゆる義なり、亦上の文は破戒なりとも還得受せば、清淨なるべし、懺悔すれば清淨なり、未受に同からず、問て云く、七逆すでに懺悔を許さは、亦受戒すべきか如何ん、
新字:答て云く、実に懺悔すべし、受戒の時、許さゞることは且く抑止門とて抑ゆる義なり、亦上の文は破戒なりとも還得受せば、清浄なるべし、懺悔すれば清浄なり、未受に同からず、問て云く、七逆すでに懺悔を許さは、亦受戒すべきか如何ん、
書き下し
答て云く、実に懺悔すべし、受戒の時、許さゞることは且く抑止門とて抑ゆる義なり、亦上の文は破戒なりとも還得受せば、清浄なるべし、懺悔すれば清浄なり、未受に同からず、問て云く、七逆すでに懺悔を許さは、亦受戒すべきか如何ん、
現代語訳
答えて言われた。まことに懺悔すべきである。受戒のときに許さないというのは、しばらく抑止門といって、抑えるための言い方である。また上の文は、破戒であっても改めて受け直せば清浄になるはずだということである。懺悔すれば清浄である。未受の者とは同じでない。問うて言った。七逆の者にすでに懺悔を許すのであれば、また受戒もさせるべきでしょうか、いかがですか。
解説
許さないという規定を、事実の宣告ではなく抑えのための門と読む。抑止門は、本来は可能であっても当面は許さないと示して人を戒める説き方である。したがって懺悔の道は閉ざされていない。前の二条から続く、規定の文言をどう読むかという問答の流れの中で、いちばん重い場面がここに置かれている。
この章句が説くこと
懺悔清浄受戒抑止門逆罪破戒
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