幽夢影 / 巻下・此れ皆人身を喩へ言ふなり
佛氏云:「日月在須彌山腰。」果爾,則日月必是遶山橫行而後可。苟有昇有降,必爲山巓所礙矣。又云:「地上有阿耨達池,其水四出,流入諸印度。」又云:「地輪之下爲水輪,水輪之下爲風輪,風輪之下爲空輪。」余謂此皆喩言人身也:須彌山喩人首,日月喩兩目,池水四出喩血脈流通,地輪喩此身,水爲便溺,風爲洩氣。此下則無物矣。
新字:仏氏云:「日月在須弥山腰。」果爾,則日月必是遶山横行而後可。苟有昇有降,必為山巓所礙矣。又云:「地上有阿耨達池,其水四出,流入諸印度。」又云:「地輪之下為水輪,水輪之下為風輪,風輪之下為空輪。」余謂此皆喩言人身也:須弥山喩人首,日月喩両目,池水四出喩血脈流通,地輪喩此身,水為便溺,風為洩気。此下則無物矣。
書き下し
佛氏云ふ、「日月は須彌山の腰に在り」と。果して爾らば、則ち日月は必ず是れ山を遶りて橫に行きて而る後に可なり。苟も昇る有り降る有らば、必ず山巓の礙ぐる所と爲らん。又云ふ、「地上に阿耨達池有り、其の水四に出で、流れて諸印度に入る」と。又云ふ、「地輪の下を水輪と爲し、水輪の下を風輪と爲し、風輪の下を空輪と爲す」と。余謂へらく此れ皆人身を喩へ言ふなり。須彌山は人の首に喩へ、日月は兩目に喩へ、池水の四に出づるは血脈の流通に喩へ、地輪は此の身に喩へ、水は便溺と爲し、風は洩氣と爲す。此の下は則ち物無し。
現代語訳
仏教では「日月は須弥山の中腹にある」と言います。もしそうなら、日月は山の周りを横に巡るのでなければなりません。もし昇ったり沈んだりするなら、きっと山頂にさえぎられてしまうでしょう。また「地上に阿耨達池があり、その水は四方に流れ出て、インドの各地に流れ込む」と言います。さらに「地輪の下に水輪があり、水輪の下に風輪があり、風輪の下に空輪がある」とも言います。私が思うに、これらはみな人の体をたとえて言ったものです。須弥山は人の頭を、日月は両目を、池の水が四方に流れ出るのは血脈の流れを、地輪はこの体をたとえています。水輪は小便、風輪はおならにあたります。その下には何もありません。
解説
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