幽夢影 / 巻下・動物中に三教有り
動物中有三教焉:蛟龍麟鳳之屬,近於儒者也;猿狐鶴鹿之屬,近於仙者也;獅子牯牛之屬,近於釋者也。植物中有三教焉;竹梧蘭蕙之屬,近於儒者也;蟠桃老桂之屬,近於仙者也;蓮花薝蔔之屬,近於釋者也。
新字:動物中有三教焉:蛟竜麟鳳之属,近於儒者也;猿狐鶴鹿之属,近於仙者也;獅子牯牛之属,近於釈者也。植物中有三教焉;竹梧蘭蕙之属,近於儒者也;蟠桃老桂之属,近於仙者也;蓮花薝蔔之属,近於釈者也。
書き下し
動物中に三教有り。蛟龍麟鳳の屬は、儒者に近し。猿狐鶴鹿の屬は、仙者に近し。獅子牯牛の屬は、釋者に近し。植物中に三教有り。竹梧蘭蕙の屬は、儒者に近し。蟠桃老桂の屬は、仙者に近し。蓮花薝蔔の屬は、釋者に近し。
現代語訳
動物の中にも儒・仏・道の三教があります。蛟龍・麒麟・鳳凰のたぐいは儒者に近く、猿・狐・鶴・鹿のたぐいは仙人に近く、獅子や牡牛のたぐいは仏者に近いのです。植物の中にも三教があります。竹・梧桐・蘭・蕙のたぐいは儒者に近く、蟠桃や老いた桂のたぐいは仙人に近く、蓮の花や薝蔔(くちなし)のたぐいは仏者に近いのです。
解説
動物と植物を、儒教・道教・仏教の三教に振り分けてみせた一則です。龍や麒麟や鳳凰は、聖人の世に現れる瑞獣として儒教の経書に登場します。鶴や鹿は仙人の乗り物、狐や猿は修行して仙術を得るとされました。獅子は仏の説法の力強さを表す獅子吼に、牛は禅の修行の喩えに使われます。植物では、竹や蘭は君子の徳、蟠桃は西王母の不老の桃、蓮や薝蔔は仏典に出てくる清らかな花です。友人の石天外は「凡人は動物の中のかげろう、植物の中のいばらにすぎない」と皮肉っています。三つの教えが暮らしの中に溶け込んでいた、当時の文化の厚みが感じられる一則です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
三教儒教仏教道教見立て
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