幽夢影 / 巻下・聖賢は天地の替身
聖賢者,天地之替身。
書き下し
聖賢なる者は、天地の替身なり。
現代語訳
聖人賢者とは、天地の身代わりです。
解説
わずか八字で、聖賢の役割を言い切った一則です。替身は身代わりのことです。天地は万物を生み育てますが、言葉を語ることも、人に直接教えることもしません。その天地の心を人の世で代わりに行い、道を示すのが聖賢だというのです。儒教では古くから、聖人は天に代わって民を教え導く存在とされてきました。張潮はその考えを、替身という口語的な言葉で親しみやすく言い表しています。友人の石天外は「この言葉は名教に大いに功がある、ひれ伏して拝まずにいられない」と感激し、張竹坡は「聖賢は天地の助手だ」と言い換えています。立場は違っても、大きなものの働きを自分の持ち場で代わりに担うという意識は、仕事に誇りを与えてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
聖賢天地儒教使命修身
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『幽夢影』巻上・無善無惡は是れ聖人無善無惡は是れ聖人(「帝力何か我に有らん」、「之を殺せども怨みず、之を利すれども庸とせず」、「直を以て怨みに報い、德を以て德に報ゆ」、「一介も與へず、一介も取らず」の類の如し)、善多く惡少きは是れ賢者(顏子の「過ちを貳びせず、不善有れば未だ嘗て知らずんばあらず」、子路の「人告ぐるに過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」の類の如し)、善少く惡多きは是れ庸人、惡有りて善無きは是れ小人(其の偶ま善を爲す處も、亦必ず爲にする所有り)、善有りて惡無きは是れ仙佛(其の所謂善も、亦吾が儒の所謂善に非ざるなり)。
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『幽夢影』巻下・天は極めて做し難からず天は極めて做し難からず、只須く仁人君子の才德有る者二三十人を生ずれば足れり。君一、相一、冢宰一、及び諸路の總制・撫軍、是れなり。
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『幽夢影』巻下・豪傑は聖賢よりも易し豪傑は聖賢よりも易く、文人は才子よりも多し。
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『呻吟語』外篇・聖賢・吾嘗て之を人天と謂ふ化育に參贊する底の聖人は、人類の中に在りと雖も、其の實は是れ個の活天なり。吾嘗て之を人天と謂ふ。
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『慎思録』巻之四之を導きて生養遂げ、之を教へて倫理明らかなり。然る後に人道立ち、天道成り、地道平らかなり。天地自ら位し、万物自ら育す。故に朱子曰く、儒者の道は、必ず天地に参し化育を賛くるに到りて、然る後に功用の全きと為す、と。
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伝習録・陸澄録問う、「先儒曰く、『聖人の道は、必ず降りて自ら卑くす。賢人の言は、則ち引きて自ら高くす』と。如何」と。先生曰く、「然らず。此くの如くんば却って乃ち偽なり。聖人は天の如し。往くとして天に非ざる無し。三光の上も、天なり。九地の下も亦た天なり。天は何ぞ嘗て降りて自ら卑くする有らんや。此れ所謂る『大にして之を化す』なり。賢人は山岳の如し。其の高きを守るのみ。然れども百仞なる者は引きて千仞と為す能わず。千仞なる者は引きて万仞と為す能わず。是れ賢人は未だ嘗て引きて自ら高くせざるなり。引きて自ら高くせば則ち偽なり」と。