幽夢影 / 巻上・無善無惡は是れ聖人
無善無惡是聖人(如:「帝力何有於我」,「殺之而不怨,利之而不庸」;「以直報怨,以德報德」;「一介不與,一介不取」之類),善多惡少是賢者(如:顏子「不貳過,有不善未嘗不知」;子路,「人告有過則喜」之類),善少惡多是庸人,有惡無善是小人(其偶爲善處,亦必有所爲),有善無惡是仙佛(其所謂善,亦非吾儒之所謂善也)。
新字:無善無悪是聖人(如:「帝力何有於我」,「殺之而不怨,利之而不庸」;「以直報怨,以徳報徳」;「一介不与,一介不取」之類),善多悪少是賢者(如:顔子「不貳過,有不善未嘗不知」;子路,「人告有過則喜」之類),善少悪多是庸人,有悪無善是小人(其偶為善処,亦必有所為),有善無悪是仙仏(其所謂善,亦非吾儒之所謂善也)。
書き下し
無善無惡は是れ聖人(「帝力何か我に有らん」、「之を殺せども怨みず、之を利すれども庸とせず」、「直を以て怨みに報い、德を以て德に報ゆ」、「一介も與へず、一介も取らず」の類の如し)、善多く惡少きは是れ賢者(顏子の「過ちを貳びせず、不善有れば未だ嘗て知らずんばあらず」、子路の「人告ぐるに過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」の類の如し)、善少く惡多きは是れ庸人、惡有りて善無きは是れ小人(其の偶ま善を爲す處も、亦必ず爲にする所有り)、善有りて惡無きは是れ仙佛(其の所謂善も、亦吾が儒の所謂善に非ざるなり)。
現代語訳
善も悪も意識しないのが聖人です(「帝の力など自分に何の関わりがあろう」、「罰せられても恨まず、利益を与えられても恩に着せられたと思わない」、「まっすぐさで恨みに報い、徳で徳に報いる」、「塵ひとつも人に与えず、塵ひとつも人から取らない」といった類です)。善が多く悪が少ないのが賢者です(顔回の「同じ過ちを二度しない、自分の不善に気づかないことがない」、子路の「人から過ちを指摘されると喜んだ」といった類です)。善が少なく悪が多いのが凡人、悪があって善がないのが小人です(たまに善をしても、必ず下心があります)。善があって悪がないのが仙人や仏です(ただしその善も、われわれ儒者のいう善とは違います)。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』外篇・人情・死亡の時人を欺き得ず人己の善を說けば則ち喜び、人己の過ちを說けば則ち怒る。自家の善惡は自家真に知る。禍敗の時を待たば人を欺き得ず。人體の實を說けば則ち喜び、人體の虛を說けば則ち怒る。自家の病痛は自家獨り覺ゆ。死亡の時に到らば人を欺き得ず。
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『正法眼蔵随聞記』巻四文に云く、ほめて白品の中にあるを善と云ふ、そしりて黒品の中におくを悪と云ふと、亦云く、苦を受くべきを悪と云ふ、楽をまねくべきを善と云ふと、かくの如く子細に分別して、真実の善を見て行し、真実の悪を見てすつべきなり、僧は清浄の中より来れるものなれば、人の欲を起すまじきものを以てよしとし、きよきとするなり、示して云く、
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『呻吟語』内篇・修身・寧ろ禍あるも惡を為すを肯んぜず善なる者は必ずしも福ならず、惡なる者は必ずしも禍ならず。君子は稔に之を知る。寧ろ禍あるも惡を為すを肯んぜず。忠直なる者は窮し、諛佞なる者は通ず。君子は稔に之を知る。寧ろ窮するも佞を為すを肯んぜず。但だ理に當然有るを知るのみに非ず、亦た其の心に已む容からざる所有るのみ。
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『呻吟語』内篇・修身・惡を為すに勉強無く、善を為すに自然無し惡を為すには再び個の勉強底沒く、善を為すには再び個の自然底沒し。學者此の念頭を勘破せば、寧ぞ愧ぢ奮はざらんや。
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云く、善悪と云ふこと定め難し、世間の人は綾羅錦繡をきたるをよしと云ふ、麁布糞掃衣をわるしと云ふ、仏法には此れをよしとし、清しとし、金銀錦綾をわるしとし、けがれたりとす、かくの如く、一切のことにわたりて皆然り、予が如きも、聊か韻声をとゝのへ、文字をかきすぐるゝを、俗人等は尋常ならぬことに云もあり、亦有人は出家学道の身としてかくの如きのこと知れるとそしる人もあり、いづれをか定めて善として取り、悪としてすつへきぞ、
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『呻吟語』外篇・人情・鬼神に罪を得る者人の善を聞きて之を掩覆し、或いは文致して以て其の心を誣ふ。人の過ちを聞きて之を播揚し、或いは枝葉して以て其の罪を多くす。此れ皆な鬼神に罪を得る者なり。吾が黨之を戒めよ。