幽夢影 / 巻下・曲逆の音
陳平封曲逆侯,《史》、《漢》注皆云:「音去遇。」予謂此是北人土音耳。若南人四音俱全,似仍當讀作本音爲是。(北人於唱「曲」之「曲」,亦讀如「去」字。)
新字:陳平封曲逆侯,《史》、《漢》注皆云:「音去遇。」予謂此是北人土音耳。若南人四音倶全,似仍当読作本音為是。(北人於唱「曲」之「曲」,亦読如「去」字。)
書き下し
陳平曲逆侯に封ぜらる、『史』『漢』の注に皆云ふ、「音は去遇」と。予謂へらく此れは是れ北人の土音のみ。南人の若きは四音俱に全し、仍ほ當に讀みて本音と作すを是と爲すべきに似たり。(北人は唱曲の「曲」に於ても、亦讀みて「去」字の如くす。)
現代語訳
陳平(漢の高祖の功臣)は曲逆侯に封じられましたが、『史記』と『漢書』の注はどちらも「曲逆は去遇と読む」としています。私が思うに、これは北方の人のお国なまりにすぎません。南方の人は四声がすべてそろっているので、やはり本来の音で読むのが正しいように思われます。(北方の人は「唱曲」の「曲」も、「去」の字のように読みます。)
解説
地名の読み方をめぐる、音韻学的な考察の一則です。陳平は漢の高祖劉邦の知恵袋として活躍した功臣で、曲逆という土地に封じられました。古い注釈は曲逆を去遇と読ませていますが、張潮は、これは入声を失った北方音によるものだと言います。中国語の声調には平・上・去・入の四声があり、詰まった音で終わる入声は、北方では早くに消えて他の声調に混じりました。南方の人である張潮は、四声を保つ南方音こそ本来の音に近いと考えたのです。友人の孫松坪は、曲逆は川が曲がり逆流する地形から付いた名だと述べています。権威ある注釈でも、その背景を問い直す姿勢は、学ぶ者にとって大切な態度です。

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音韻四声陳平学問検証
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