幽夢影 / 巻下・古今の至文は皆血淚の成す所
古今至文,皆血淚所成。
新字:古今至文,皆血涙所成。
書き下し
古今の至文は、皆血淚の成す所なり。
現代語訳
昔から今までの最上の文章は、みな血の涙から生まれたものです。
解説
わずか九字で、文学の核心を言い当てた一則です。至文は最高の文章、血涙は悲しみや憤りのあまり流す血の涙です。屈原の『離騒』、司馬遷の『史記』、杜甫の詩など、後世に残る名作の多くは、作者が逆境の中で身を削るようにして書いたものでした。司馬遷も、古の聖賢の書は発憤して作られたものが多いと述べています。上手に飾った文章よりも、切実な思いから出た言葉が人の心を打つということです。友人の江含徴は「古今の駄文も、また純然たる血でできている」と茶化していますが、苦労すれば名文になるわけではないという、もっともな指摘でもあります。本当に伝えたいことがある文章は、技巧を超えて読み手に届きます。
この章句が説くこと
文章血涙発憤情著述
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