呻吟語 / 外篇・詞章・文は理勝るを貴ぶ
《左傳》、《國語》、《戰國策》,春秋之時文也,未嘗見春秋時人學三代。《史記》、《漢書》,西漢之時文也,未嘗見班、馬學《國》、《左》。今之時文,安知非後世之古文?而不擬《國》、《左》,則擬《史》、《漢》,陋矣,人之棄己而襲人也!六經四書,三代以上之古文也,而不擬者何?習見也。甚矣人之厭常而喜異也!餘以為文貴理勝,得理,何古何今?苟理不如人而摹仿於句字之間,以希博洽之譽,有識者恥之。
新字:《左伝》、《国語》、《戦国策》,春秋之時文也,未嘗見春秋時人学三代。《史記》、《漢書》,西漢之時文也,未嘗見班、馬学《国》、《左》。今之時文,安知非後世之古文?而不擬《国》、《左》,則擬《史》、《漢》,陋矣,人之棄己而襲人也!六経四書,三代以上之古文也,而不擬者何?習見也。甚矣人之厭常而喜異也!余以為文貴理勝,得理,何古何今?苟理不如人而摹仿於句字之間,以希博洽之誉,有識者恥之。
書き下し
『左傳』、『國語』、『戰國策』は、春秋の時文なり。未だ嘗て春秋の時の人の三代を學ぶを見ず。『史記』、『漢書』は、西漢の時文なり。未だ嘗て班・馬の『國』・『左』を學ぶを見ず。今の時文は、安んぞ後世の古文に非ざるを知らんや。而るに『國』・『左』に擬せずんば、則ち『史』・『漢』に擬す。陋なるかな、人の己を棄てて人を襲ふや。六經四書は、三代以上の古文なり。而るに擬せざるは何ぞ。習見なればなり。甚だしきかな、人の常を厭ひて異を喜ぶや。余以為へらく文は理勝るを貴ぶ。理を得ば、何ぞ古何ぞ今ならん。苟しくも理人に如かずして句字の間に摹仿し、以て博洽の譽を希ふは、識有る者之を恥づ。
現代語訳
左伝や国語や戦国策は、春秋の時の当世文です。春秋の時の人が三代を学んだのを見たことがありません。史記や漢書は、西漢の当世文です。班固や司馬遷が国語や左伝を学んだのを見たことがありません。今の当世文が、後の世の古文でないとどうして分かるでしょうか。それなのに国語や左伝に似せなければ史記や漢書に似せます。卑しいことです、人が自分を捨てて人を襲うのは。六経四書は三代より前の古文です。それなのに似せないのはなぜか。見慣れているからです。はなはだしいことです、人が常を厭うて異を喜ぶのは。私は思います、文は理が勝ることを貴びます。理を得られれば、古も今もありません。もし理が人に及ばないまま句や字を真似て、博識の誉れを望むのは、識見のある者が恥じることです。
解説

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『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。