幽夢影 / 巻下・千古の上に相思ふ者
我不知我之生前,當春秋之季,曾一識西施否?當典午之時,曾一看衞玠否?當義熙之世,曾一醉淵明否?當天寶之代,曾一睹太眞否?當元豐之朝,曾一晤東坡否?千古之上,相思者不止此數人,而此數人則其尤甚者,故姑舉之以概其餘也。
新字:我不知我之生前,当春秋之季,曽一識西施否?当典午之時,曽一看衛玠否?当義熙之世,曽一酔淵明否?当天宝之代,曽一睹太真否?当元豊之朝,曽一晤東坡否?千古之上,相思者不止此数人,而此数人則其尤甚者,故姑舉之以概其余也。
書き下し
我は知らず、我の生前、春秋の季に當たりて、曾て一たび西施を識りしや否や。典午の時に當たりて、曾て一たび衞玠を看しや否や。義熙の世に當たりて、曾て一たび淵明と醉ひしや否や。天寶の代に當たりて、曾て一たび太眞を睹しや否や。元豐の朝に當たりて、曾て一たび東坡に晤ひしや否や。千古の上、相思ふ者は此の數人に止まらず、而して此の數人は則ち其の尤も甚だしき者なり、故に姑く之を舉げて以て其の餘を概す。
現代語訳
私は知りません、生まれる前の私が、春秋時代の末に西施(越の美女)と知り合ったことがあるかどうか。晋の時代に衛玠(晋の美男子)を見たことがあるかどうか。義熙の世(東晋の末)に陶淵明と酒に酔ったことがあるかどうか。天宝の時代(唐の玄宗の治世)に楊太真(楊貴妃)を目にしたことがあるかどうか。元豊の朝廷(北宋の神宗の治世)で蘇東坡と会ったことがあるかどうか。千古の昔にさかのぼれば、恋い慕う人はこの数人にとどまりませんが、この数人はとりわけ思いの強い人たちなので、ひとまずこれを挙げて、残りの人々をまとめて代表させるのです。
解説
前世の自分が、古の憧れの人々に会ったことがあるかどうかと夢想した一則です。西施は春秋時代の越の美女、典午は晋の王朝を指す隠語で、衛玠は見物人が群がりすぎて疲れ死んだと言われるほどの美男子でした。義熙は東晋の年号で陶淵明の時代、天宝は唐の玄宗の年号で楊貴妃の時代、元豊は北宋の年号で蘇軾の時代です。美女と美男子と詩人とが並ぶところに、張潮の憧れの幅がうかがえます。友人の鄭破水は、称え慕う心は千古に一つの情であり、美人を妻に、名士を友にしなくてもよく、前世を問う必要もない、張潮はまことに情にとらわれた人だと評しています。時代を超えて慕える人を持つことは、心の支えになります。
この章句が説くこと
風雅歴史人物憧れ交友
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