幽夢影 / 巻上・凡そ字は皆四聲有るに非ず
平上去入,乃一定之至理。然入聲之爲字也少,不得謂凡字皆有四聲也。世之調平仄者,於入聲之無其字者,往往以不相合之音隸於其下。爲所隸者,苟無平上去之三聲,則是以寡婦配鰥夫,猶之可也;若所隸之字自有其平上去之三聲,而欲強以從我,則是干有夫之婦矣,其可乎?姑就詩韻言之,如「東」、「冬」韻,無入聲者也,今人盡調之以「東」、「董」、「凍」、「督」。夫「督」之爲音,當附於「都」、「睹」、「妬」之下;若屬之於「東」、「董」、「凍」,又何以處夫「都」、「睹」、「妬」乎?若「東」、「都」二字俱以「督」字爲入聲,則是一婦而兩夫矣。三「江」無入聲者也,今人盡調之以「江」、「講」、「絳」、「覺」,殊不知「覺」之爲音,當附於「交」、「教」之下者也。諸如此類,不勝其舉。然則如之何而後可?曰:鰥者聽其鰥,寡者聽其寡,夫婦全者安其全,各不相干而已矣。(「東」、「冬」、「歡」、「桓」、「寒」、「山」、「眞」、「文」、「元」、「淵」、「先」、「天」、「庚」、「靑」、「侵」、「鹽」、「咸」諸部,皆無入聲者也。
新字:平上去入,乃一定之至理。然入声之為字也少,不得謂凡字皆有四声也。世之調平仄者,於入声之無其字者,往往以不相合之音隸於其下。為所隸者,苟無平上去之三声,則是以寡婦配鰥夫,猶之可也;若所隸之字自有其平上去之三声,而欲強以従我,則是干有夫之婦矣,其可乎?姑就詩韻言之,如「東」、「冬」韻,無入声者也,今人尽調之以「東」、「董」、「凍」、「督」。夫「督」之為音,当附於「都」、「睹」、「妬」之下;若属之於「東」、「董」、「凍」,又何以処夫「都」、「睹」、「妬」乎?若「東」、「都」二字倶以「督」字為入声,則是一婦而両夫矣。三「江」無入声者也,今人尽調之以「江」、「講」、「絳」、「覚」,殊不知「覚」之為音,当附於「交」、「教」之下者也。諸如此類,不勝其舉。然則如之何而後可?曰:鰥者聴其鰥,寡者聴其寡,夫婦全者安其全,各不相干而已矣。(「東」、「冬」、「歓」、「桓」、「寒」、「山」、「真」、「文」、「元」、「淵」、「先」、「天」、「庚」、「青」、「侵」、「塩」、「咸」諸部,皆無入声者也。
書き下し
平上去入は、乃ち一定の至理なり。然れども入聲の字爲る少なく、凡そ字は皆四聲有りと謂ふを得ず。世の平仄を調ふる者は、入聲の其の字無き者に於て、往往にして相合はざるの音を以て其の下に隸す。隸せらるる者、苟くも平上去の三聲無くんば、則ち是れ寡婦を以て鰥夫に配するなり、猶ほ可なり。若し隸する所の字自ら其の平上去の三聲有るに、強ひて以て我に從はしめんと欲せば、則ち是れ有夫の婦を干すなり、其れ可ならんや。姑く詩韻に就きて之を言はん。「東」「冬」の韻の如きは、入聲無き者なり、今人盡く之を調ふるに「東」「董」「凍」「督」を以てす。夫れ「督」の音爲る、當に「都」「睹」「妬」の下に附すべし。若し之を「東」「董」「凍」に屬せしめば、又何を以て夫の「都」「睹」「妬」を處せんや。若し「東」「都」の二字俱に「督」の字を以て入聲と爲さば、則ち是れ一婦にして兩夫なり。三「江」は入聲無き者なり、今人盡く之を調ふるに「江」「講」「絳」「覺」を以てす、殊に知らず「覺」の音爲る、當に「交」「教」の下に附すべき者なるを。諸て此くの如きの類、其の舉ぐるに勝へず。然らば則ち之を如何にして後に可ならん。曰く、鰥なる者は其の鰥なるに聽せ、寡なる者は其の寡なるに聽せ、夫婦全き者は其の全きに安んじ、各相干さざるのみ。(「東」「冬」「歡」「桓」「寒」「山」「眞」「文」「元」「淵」「先」「天」「庚」「靑」「侵」「鹽」「咸」の諸部は、皆入聲無き者なり。
現代語訳
平声・上声・去声・入声の四声は、定まった道理です。しかし入声の字は数が少なく、すべての字に四声がそろっているとは言えません。世間で平仄を整える人は、入声の字がない音について、しばしば合わない音を持ってきてその下に当てはめています。当てはめられた字に、もともと平上去の三声がないなら、それは未亡人を男やもめに添わせるようなもので、まだよいでしょう。しかし当てはめる字に自分の平上去の三声があるのに、無理にこちらに従わせようとするのは、夫のある女性に手を出すようなものです。それでよいはずがありません。ひとまず詩の韻で言いましょう。「東」「冬」の韻には入声がありませんが、今の人はみな「東・董・凍・督」と四声を配しています。そもそも「督」の音は、「都・睹・妬」の下に付けるべきものです。もし「東・董・凍」に属させたら、「都・睹・妬」はどう扱うのでしょうか。もし「東」と「都」の二字がどちらも「督」を入声とするなら、一人の妻に二人の夫がいることになります。三江の韻には入声がありませんが、今の人はみな「江・講・絳・覚」と配しています。「覚」の音は「交・教」の下に付けるべきものだと、まったく知らないのです。このたぐいは挙げきれません。ではどうすればよいのでしょうか。男やもめは男やもめのまま、未亡人は未亡人のままにしておき、夫婦のそろっているものはそのままにして、互いに干渉しないだけのことです。(「東」「冬」「歓」「桓」「寒」「山」「真」「文」「元」「淵」「先」「天」「庚」「青」「侵」「塩」「咸」の諸部は、どれも入声のないものです。
解説
この章句が説くこと
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