幽夢影 / 巻上・二氏は廢すべからず
予嘗謂二氏不可廢,非襲夫大養濟院之陳言也。蓋名山勝景,我輩每思蹇裳就之。使非琳宮梵剎,則倦時無可駐足,飢時誰與授餐。忽有疾風暴雨,五大夫果眞足恃乎?又或丘壑深邃,非一日可了,豈能露宿以待明日乎?虎豹蛇虺,能保其不人患乎?又或爲士大夫所有,果能不問主人,任我之登陟憑弔而莫之禁乎?不特此也。甲之所有,乙思起而奪之,是啟爭端也。祖父之所創建,子孫貧力不能修葺,其傾頹之狀,反足令山川減色矣!然此特就名山勝境言之耳。即城市之內,與夫四達之衢,亦不可少此一種。客遊可作居停,一也;長途可以稍憩,二也;夏之茗、冬之薑湯,復可以濟役夫負戴之困,三也。凡此皆就事理言之,非二氏福報之説也。
新字:予嘗謂二氏不可廃,非襲夫大養済院之陳言也。蓋名山勝景,我輩毎思蹇裳就之。使非琳宮梵刹,則倦時無可駐足,飢時誰与授餐。忽有疾風暴雨,五大夫果真足恃乎?又或丘壑深邃,非一日可了,豈能露宿以待明日乎?虎豹蛇虺,能保其不人患乎?又或為士大夫所有,果能不問主人,任我之登陟憑弔而莫之禁乎?不特此也。甲之所有,乙思起而奪之,是啓争端也。祖父之所創建,子孫貧力不能修葺,其傾頽之状,反足令山川減色矣!然此特就名山勝境言之耳。即城市之内,与夫四達之衢,亦不可少此一種。客遊可作居停,一也;長途可以稍憩,二也;夏之茗、冬之薑湯,復可以済役夫負戴之困,三也。凡此皆就事理言之,非二氏福報之説也。
書き下し
予嘗て謂へらく二氏は廢すべからずと、夫の大養濟院の陳言を襲ふに非ざるなり。蓋し名山勝景は、我が輩每に裳を蹇げて之に就かんことを思ふ。琳宮梵刹に非ざらしめば、則ち倦む時に足を駐むべき無く、飢うる時に誰か與に餐を授けん。忽ち疾風暴雨有らば、五大夫果たして眞に恃むに足らんや。又或いは丘壑深邃にして、一日にして了すべきに非ざれば、豈に能く露宿して以て明日を待たんや。虎豹蛇虺は、能く其の人の患を爲さざるを保たんや。又或いは士大夫の有する所と爲らば、果たして能く主人を問はず、我が登陟憑弔に任せて之を禁ずる莫からんや。特だに此れのみならず。甲の有する所、乙起ちて之を奪はんことを思ふは、是れ爭端を啟くなり。祖父の創建する所、子孫貧にして力修葺する能はざれば、其の傾頹の狀、反つて山川をして色を減ぜしむるに足らん。然れども此れ特だ名山勝境に就きて之を言ふのみ。即ち城市の内、夫の四達の衢とも、亦此の一種を少くべからず。客遊して居停と作すべき、一なり。長途に以て稍憩ふべき、二なり。夏の茗、冬の薑湯、復た以て役夫負戴の困を濟ふべき、三なり。凡そ此れ皆事理に就きて之を言ふ、二氏の福報の説に非ざるなり。
現代語訳
私はかねてから、仏教と道教の二つはなくしてはならないと考えてきました。寺院は大きな救貧院だという言い古された説をまねているのではありません。名山や景勝の地には、私たちはいつも裾をからげて出かけたいと思うものです。もし道観や寺院がなかったら、疲れたときに足を休める所もなく、飢えたときに誰が食事を出してくれるでしょうか。急に強い風雨が来たら、五大夫の松(始皇帝が爵位を与えた松)の木陰だけで本当に頼りになるでしょうか。また、谷が深くて一日では回りきれないなら、野宿して翌日を待つわけにもいきません。虎や豹や蛇やまむしが人を害さないと保証できるでしょうか。また、その地が役人や名士の所有となっていたら、主人に断らずに自由に登ったり昔をしのんだりしても止められない、ということになるでしょうか。それだけではありません。甲が持っているものを乙が奪おうと考えれば、争いの種になります。祖父が建てたものも、子孫が貧しくて修繕できなければ、その崩れかけた姿がかえって山川の景色を損ないます。しかしこれは名山や景勝の地について言っただけです。町の中や四方に通じる大通りにも、この種のものは欠かせません。旅人の宿になるのが一つ目、長い道のりで一休みできるのが二つ目、夏のお茶や冬の生姜湯で、荷を担ぐ人足の苦労を救えるのが三つ目です。これらはすべて事の道理から言っているのであって、仏教や道教の功徳の報いの説から言っているのではありません。
解説

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