呻吟語 / 内篇・應務・怒るに匪ず伊れ教ふるなり
若忍性平氣,指使而面命之,是兩益也。彼我無苦而事有濟,不亦可乎?《詩》曰:「匪怒伊教。」《書》曰:「無忿疾於頑。」此學者涵養氣質第一要務也。
新字:若忍性平気,指使而面命之,是両益也。彼我無苦而事有済,不亦可乎?《詩》曰:「匪怒伊教。」《書》曰:「無忿疾於頑。」此学者涵養気質第一要務也。
書き下し
若し性を忍び氣を平らかにし、指使して之に面命せば、是れ兩つながら益なり。彼我苦しむ無くして事濟る有り、亦た可ならずや。《詩》に曰く、「怒るに匪ず伊れ教ふるなり」と。《書》に曰く、「頑に忿疾すること無かれ」と。此れ學者氣質を涵養する第一の要務なり。
現代語訳
もし性を抑え気を平らかにして、指図し面と向かって教えれば、双方に益があります。相手も自分も苦しまずに事が済む。よいではありませんか。詩経に、怒るのではなく教えるのだとあります。書経に、頑なな者に憤り憎むなとあります。これが学ぶ者が気質を養う上での第一の務めです。
解説
前の段を受けて、代わりの方法を示します。抑えて、平らかにして、面と向かって教える。それで双方が苦しまずに事が済むという実利が挙げられます。そして詩経と書経の一句ずつで裏づけ、最後にこれを気質を養う第一の務めだと位置づける。怒らないことを道徳ではなく、修養の実践課題として据えた一段です。怒らないことを、修養の実践課題として据えています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
教える怒り実利気質涵養
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