幽夢影 / 巻上・樂境を尋ぬるは乃ち仙を學ぶ
尋樂境乃學仙,避苦趣乃學佛。佛家所謂「極樂世界」者,蓋謂眾苦之所不到也。
新字:尋楽境乃学仙,避苦趣乃学仏。仏家所謂「極楽世界」者,蓋謂衆苦之所不到也。
書き下し
樂境を尋ぬるは乃ち仙を學ぶなり、苦趣を避くるは乃ち佛を學ぶなり。佛家の所謂「極樂世界」なる者は、蓋し衆苦の到らざる所を謂ふなり。
現代語訳
楽しい境地を求めるのが仙道を学ぶことで、苦しい境遇を避けるのが仏道を学ぶことです。仏教でいう「極楽世界」とは、おそらく、あらゆる苦しみが届かない所という意味なのでしょう。
解説
仙道と仏道の違いを、楽を求めるか苦を避けるかという方向の違いで言い分けた一則です。仙道は不老長生や自在な境地という楽しみを積極的に求めます。仏道は生老病死の苦しみから抜け出すことを目指します。張潮は、極楽という言葉さえ、楽が満ちているというより苦が届かない所の意味だと読んでいます。実際、阿弥陀経には、その国の人々には苦しみがなくただ楽しみを受けるので極楽と名づけるとあります。友人の陸雲士は、すべては空であり、苦楽は言うに足りないから、仏を学ぶほうが仙を学ぶよりすぐれていると評しています。幸せを増やすことと、苦しみを減らすことは、似ていて違う道です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
仏教仙道苦楽修身幸福
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