幽夢影 / 巻上・盤古も亦未だ嘗て偶無からず
黃九煙先生云:古今人必有其偶雙,千古而無偶者,其惟盤古乎?予謂盤古亦未嘗無偶,但我輩不及見耳。其人爲誰,即此劫盡時最後一人是也。
新字:黄九煙先生云:古今人必有其偶双,千古而無偶者,其惟盤古乎?予謂盤古亦未嘗無偶,但我輩不及見耳。其人為誰,即此劫尽時最後一人是也。
書き下し
黃九煙先生云ふ、古今の人は必ず其の偶雙有り、千古にして偶無き者は、其れ惟だ盤古か、と。予謂へらく、盤古も亦未だ嘗て偶無からず、但だ我が輩及び見ざるのみ。其の人は誰と爲す、即ち此の劫盡くる時の最後の一人是れなり。
現代語訳
黄九煙先生(明末清初の文人黄周星)は言いました、昔から今まで、人には必ず対になる相手がいるものだ、千古の昔から対のない者は、ただ盤古(天地を開いた神話の始祖)くらいだろうか、と。私はこう考えます、盤古にも対がなかったわけではなく、ただ私たちが見ることができないだけです。その人とは誰か、それはこの世界が滅び尽きるときの最後の一人です。
解説
どんな人にも自分と対になる相手がいるという話を、天地のはじまりと終わりにまで広げた一則です。盤古は中国神話で天地を開いた最初の存在で、たしかに同時代に並ぶ者はいません。張潮はそこで、時間の反対の端、世界が尽きるときの最後の一人こそ盤古の対だと切り返しました。劫は仏教でいうきわめて長い時間の単位で、劫尽はこの世の終わりを指します。友人の洪秋士は、対は二人とは限らず三人や四人で組になる者もいると付け加えています。自分と対になる人は、同じ時代にいるとは限らないと思うと、孤独の見え方が少し変わります。
この章句が説くこと
機知人物盤古孤独発想
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