維摩経 / 弟子品第三(6)
佛告富樓那彌多羅尼子。汝行詣維摩詰問疾。富樓那白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於大林中在一樹下。為諸新學比丘說法。時維摩詰來謂我言。唯富樓那。先當入定觀此人心然後說法。無以穢食置於寶器。當知是比丘心之所念。無以琉璃同彼水精。汝不能知眾生根源。無得發起以小乘法。彼自無瘡勿傷之也。欲行大道莫示小徑。無以大海內於牛跡。無以日光等彼螢火。富樓那。此比丘久發大乘心。中忘此意。如何以小乘法而教導之。我觀小乘智慧微淺猶如盲人。不能分別一切眾生根之利鈍。時維摩詰即入三昧。令此比丘自識宿命。曾於五百佛所植眾德本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。即時豁然還得本心。於是諸比丘稽首禮維摩詰足。時維摩詰因為說法。於阿耨多羅三藐三菩提不復退轉。我念聲聞不觀人根不應說法。是故不任詣彼問疾。
新字:仏告富楼那弥多羅尼子。汝行詣維摩詰問疾。富楼那白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於大林中在一樹下。為諸新学比丘説法。時維摩詰来謂我言。唯富楼那。先当入定観此人心然後説法。無以穢食置於宝器。当知是比丘心之所念。無以琉璃同彼水精。汝不能知衆生根源。無得発起以小乗法。彼自無瘡勿傷之也。欲行大道莫示小径。無以大海内於牛跡。無以日光等彼蛍火。富楼那。此比丘久発大乗心。中忘此意。如何以小乗法而教導之。我観小乗智慧微浅猶如盲人。不能分別一切衆生根之利鈍。時維摩詰即入三昧。令此比丘自識宿命。曽於五百仏所植衆徳本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。即時豁然還得本心。於是諸比丘稽首礼維摩詰足。時維摩詰因為説法。於阿耨多羅三藐三菩提不復退転。我念声聞不観人根不応説法。是故不任詣彼問疾。
書き下し
仏、富楼那弥多羅尼子に告げたまわく、汝、行きて維摩詰に詣り疾を問え。富楼那、仏に白して言さく、世尊、我、彼に詣りて疾を問うに堪任せず。所以は何ん。憶念するに、我、昔、大林の中の一樹の下に在りて、諸の新学の比丘の為に法を説きし時、維摩詰来たりて我に謂いて言わく、唯、富楼那、先ず当に定に入りて此の人の心を観じ、然して後に法を説くべし。穢食を以て宝器に置くこと無かれ。当に知るべし、是の比丘の心の念ずる所を。琉璃を以て彼の水精に同じくすること無かれ。汝、衆生の根源を知ること能わず。発起するに小乗の法を以てすること無かれ。彼、自ら瘡無し、之を傷つくること勿れ。大道を行ぜんと欲する者に小径を示すこと莫かれ。大海を以て牛跡に内るること無かれ。日光を以て彼の蛍火に等しくすること無かれ。富楼那、此の比丘は久しく大乗心を発せるに、中ごろ此の意を忘れたり。如何ぞ小乗の法を以て之を教導せんや。我、小乗の智慧を観るに微浅なること猶お盲人の如し。一切衆生の根の利鈍を分別すること能わず。時に維摩詰、即ち三昧に入り、此の比丘をして自ら宿命を識らしむ。曾て五百の仏の所に於て衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に廻向せしを。即時に豁然として還た本心を得たり。是に於て諸の比丘、稽首して維摩詰の足を礼す。時に維摩詰、因りて為に法を説き、阿耨多羅三藐三菩提に於て復た退転せず。我、念うに、声聞は人の根を観ずんば法を説くべからず。是の故に彼に詣りて疾を問うに任せず。
現代語訳
仏は富楼那弥多羅尼子に言われました。あなたは行って、維摩詰を見舞いなさい。富楼那は仏に申し上げました。世尊、私は彼のもとへ行って見舞うことに堪えません。なぜなら、思い起こせば、私が昔、大きな林の中の一本の樹の下で、新しく学ぶ比丘たちのために法を説いていたとき、維摩詰が来て私にこう言ったからです。富楼那さん、まず禅定に入って、この人たちの心を観察し、その後に法を説くべきです。汚れた食べ物を宝の器に入れてはいけません。この比丘たちが心に思っていることを知りなさい。瑠璃を水晶と同じに扱ってはいけません。あなたは、衆生の根源を知ることができません。小乗の教えで、彼らの心を起こそうとしてはいけません。彼らには傷がありません。傷つけてはいけません。大道を歩もうとする人に、小道を示してはいけません。大海を牛の足跡に入れてはいけません。太陽の光を蛍の光と同じにしてはいけません。富楼那さん、この比丘たちは、長く大乗の心を起こしていたのに、途中でこの思いを忘れたのです。どうして小乗の教えで導けるでしょうか。小乗の智慧を見ると、浅く、盲人のようなものです。あらゆる衆生の素質の鋭さと鈍さを見分けることができません。そのとき維摩詰は、すぐに三昧に入り、この比丘たちに自らの過去世を思い出させました。かつて五百の仏のもとで多くの徳の根を植え、阿耨多羅三藐三菩提に向けて功徳を廻らしていたことを。たちまち、はっと心が開け、元の心を取り戻しました。そこで比丘たちは、頭を下げて維摩詰の足を礼拝しました。そのとき維摩詰は、彼らのために法を説き、彼らは阿耨多羅三藐三菩提から二度と退きませんでした。私は思います。声聞は、相手の素質を観察しなければ、法を説くべきではないと。ですから、彼のもとへ行って見舞うことに堪えないのです。
解説

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