維摩経 / 佛國品第一(7)
爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本為菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此。佛知其念即告之言。於意云何。日月豈不淨耶。而盲者不見。對曰不也。世尊。是盲者過非日月咎。舍利弗。眾生罪故不見如來佛土嚴淨。非如來咎。舍利弗。我此土淨而汝不見。爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以為不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬如自在天宮。舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿。螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土為不淨耳。舍利弗。菩薩於一切眾生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨。於是佛以足指按地。
新字:爾時舎利弗。承仏威神作是念。若菩薩心浄則仏土浄者。我世尊本為菩薩時意豈不浄。而是仏土不浄若此。仏知其念即告之言。於意云何。日月豈不浄耶。而盲者不見。対曰不也。世尊。是盲者過非日月咎。舎利弗。衆生罪故不見如来仏土厳浄。非如来咎。舎利弗。我此土浄而汝不見。爾時螺髻梵王語舎利弗。勿作是意。謂此仏土以為不浄。所以者何。我見釈迦牟尼仏土清浄。譬如自在天宮。舎利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢悪充満。螺髻梵言。仁者心有高下。不依仏慧故。見此土為不浄耳。舎利弗。菩薩於一切衆生。悉皆平等。深心清浄。依仏智慧則能見此仏土清浄。於是仏以足指按地。
書き下し
爾の時、舎利弗、仏の威神を承けて是の念を作さく、若し菩薩の心浄ければ則ち仏土浄しとならば、我が世尊、本菩薩たりし時、意豈に浄からざらんや。而るに是の仏土の不浄なること此くの若し、と。仏、其の念を知りて即ち之に告げて言わく、意に於て云何。日月は豈に浄からざらんや。而るに盲者は見ず。対えて曰さく、不なり、世尊。是れ盲者の過にして日月の咎に非ず。舎利弗、衆生の罪の故に如来の仏土の厳浄なるを見ず。如来の咎に非ず。舎利弗、我が此の土は浄きに、汝見ず。爾の時、螺髻梵王、舎利弗に語る、是の意を作すこと勿れ、此の仏土を謂いて以て不浄と為すこと。所以は何ん。我、釈迦牟尼仏の土の清浄なるを見ること、譬えば自在天宮の如し。舎利弗の言わく、我、此の土を見るに、丘陵・坑坎・荊棘・沙礫・土石・諸山、穢悪充満せり。螺髻の梵の言わく、仁者の心に高下有り。仏慧に依らざるが故に、此の土を見て不浄と為すのみ。舎利弗、菩薩は一切衆生に於て悉く皆平等にして、深心清浄なり。仏の智慧に依れば則ち能く此の仏土の清浄なるを見る。是に於て仏、足の指を以て地を按えたもう。
現代語訳
そのとき舎利弗は、仏の威神の力を受けて、こう考えました。もし菩薩の心が清らかであれば仏土も清らかになるというなら、わが世尊は、菩薩であったとき、心が清らかでなかったのだろうか。それなのに、この仏土はこれほど不浄なのだから。仏はその考えを知って、舎利弗に言われました。どう思うか。太陽や月は清らかでないだろうか。それなのに、目の見えない人には見えない。舎利弗は答えました。そうではありません、世尊。それは目の見えない人の過ちで、日月の咎ではありません。仏は言われました。舎利弗よ、衆生の罪のために、如来の仏土の清らかな荘厳が見えないのだ。如来の咎ではない。舎利弗よ、私のこの国土は清らかなのに、あなたには見えないのだ。そのとき螺髻梵王が舎利弗に言いました。そのように考えて、この仏土を不浄だと思ってはいけません。なぜなら、私が見る釈迦牟尼仏の国土の清らかさは、自在天の宮殿のようだからです。舎利弗は言いました。私がこの国土を見ると、丘や陵、穴や溝、いばら、砂や小石、土や石、山々があり、汚れたものが満ちています。螺髻梵は言いました。あなたの心に高い低いの区別があり、仏の智慧に依っていないために、この国土を不浄だと見るのです。舎利弗よ、菩薩はすべての衆生に対して平等であり、深い心が清らかです。仏の智慧に依れば、この仏土の清らかさを見ることができます。そこで仏は、足の指で地面を押さえられました。
解説

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