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夜船閑話 / 本文

癡々兀々、月の大小を記せず、年の閏餘を知らず、世念次第に輕微にして、人欲の舊習もいつしか忘れたるが如し。馬年今歳何十歲なることもまた知らず。中頃端由有て若州の山中に潜遁する者大凡三十歲世人都て知ることなし。其中間を顧るに、恰も黃粱半熟の一夢の如し。今、此山中無人の處に向て此枯槁の一具骨を放て、大布の單衣纔に二三片を掛け、嚴冬の寒威、綿を折くの夜といへども、枯腸を凍損するにいたらず、山粒すでに斷へて穀氣を受けざること、動もすれば數月に及ぶといへども、終に凍餒の覺へも無きことは、皆此觀の力ならずや。我今旣に公に告るに一生用ひ盡さゞる底の秘訣を以てす。此外更に何をか云はんやと云て、目を收めて默坐す。

新字:癡々兀々、月の大小を記せず、年の閏余を知らず、世念次第に軽微にして、人欲の旧習もいつしか忘れたるが如し。馬年今歳何十歳なることもまた知らず。中頃端由有て若州の山中に潜遁する者大凡三十歳世人都て知ることなし。其中間を顧るに、恰も黄粱半熟の一夢の如し。今、此山中無人の処に向て此枯槁の一具骨を放て、大布の単衣纔に二三片を掛け、厳冬の寒威、綿を折くの夜といへども、枯腸を凍損するにいたらず、山粒すでに断へて穀気を受けざること、動もすれば数月に及ぶといへども、終に凍餒の覚へも無きことは、皆此観の力ならずや。我今既に公に告るに一生用ひ尽さゞる底の秘訣を以てす。此外更に何をか云はんやと云て、目を収めて黙坐す。

書き下し

癡々兀々、月の大小を記せず、年の閏余を知らず、世念次第に軽微にして、人欲の旧習もいつしか忘れたるが如し。馬年今歳何十歳なることもまた知らず。中頃端由有て若州の山中に潜遁する者大凡三十歳世人都て知ることなし。其中間を顧るに、恰も黄粱半熟の一夢の如し。今、此山中無人の処に向て此枯槁の一具骨を放て、大布の単衣纔に二三片を掛け、厳冬の寒威、綿を折くの夜といへども、枯腸を凍損するにいたらず、山粒すでに断へて穀気を受けざること、動もすれば数月に及ぶといへども、終に凍餒の覚へも無きことは、皆此観の力ならずや。我今既に公に告るに一生用ひ尽さゞる底の秘訣を以てす。此外更に何をか云はんやと云て、目を収めて黙坐す。

現代語訳

ぼんやりと、どっしりと暮らして、月の大小も記さず、閏年も知らず、世の中への思いはしだいに薄れ、人の欲の古い習いもいつのまにか忘れてしまったようである。わたしは今年いくつになったのかも知らない。中ごろ事情があって若狭の山中に隠れ住むことおよそ三十年、世の人は誰も知らなかった。その間を振り返ると、まるで黄粱が半ば煮えるまでの一夢のようである。いま、この人のいない山の中で、この枯れた骨ばかりの体を投げ出し、粗い布の単衣をわずか二、三枚掛けているだけで、厳しい冬の、綿も縮むほど寒い夜でも、腹が凍えることはない。山の木の実も尽きて穀物を口にしないことが、ともすれば数か月に及んでも、ついに凍えや飢えを感じることもないのは、みなこの観の力ではないか。わたしはいま、おまえに一生用いても使い尽くせない秘訣を告げた。このほかに何を言うことがあろうか、と言って、目を閉じて黙って坐った。

解説

白幽は、年月も年齢も忘れて暮らす自分の境地を語る。黄粱半熟の一夢は、盧生が粟の粥が煮えるわずかな間に一生分の栄華の夢を見たという邯鄲の夢の故事で、三十年もひと眠りの夢のようだという。欲も執着も薄れ、寒さや飢えにも動じない。すべて伝えたと言って黙って目を閉じる姿は、教えを出し惜しみせず、しかも余計な言葉を加えない師の潔さを表している。伝えるべきことを伝えたら、あとは黙るのである。

この章句が説くこと

邯鄲の夢無欲白幽境地沈黙伝授

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