夜船閑話 / 本文
是を眞正丹竈功成る底の時節とす。豈に風に御し霞に跨がり地を縮め水を踏む等の瑣末たる幻事を以て懷とする者ならんや。大洋を攪いて酥酪とし、厚土を變じて黃金とす。前賢曰く、丹は丹田なり、液は肺液なり。肺液を以て丹田に還へす。是故に金液還丹と云ふ。
新字:是を真正丹竈功成る底の時節とす。豈に風に御し霞に跨がり地を縮め水を踏む等の瑣末たる幻事を以て懐とする者ならんや。大洋を攪いて酥酪とし、厚土を変じて黄金とす。前賢曰く、丹は丹田なり、液は肺液なり。肺液を以て丹田に還へす。是故に金液還丹と云ふ。
書き下し
是を真正丹竈功成る底の時節とす。豈に風に御し霞に跨がり地を縮め水を踏む等の瑣末たる幻事を以て懐とする者ならんや。大洋を攪いて酥酪とし、厚土を変じて黄金とす。前賢曰く、丹は丹田なり、液は肺液なり。肺液を以て丹田に還へす。是故に金液還丹と云ふ。
現代語訳
これを、真の丹を練る竈の功が成る時とする。どうして、風に乗り霞にまたがり、地を縮め水の上を歩くといった、つまらない幻の術を心にかけることがあろうか。大海をかき混ぜて乳製品に変え、厚い大地を黄金に変えるほどの働きがある。先賢は言った。丹とは丹田のことであり、液とは肺の液のことである。肺の液を丹田に還す。だから金液還丹というのである。
解説
仙人が空を飛び水の上を歩くような超能力を、白幽は瑣末な幻事として一蹴する。本当の錬丹の成果は、奇跡を起こすことではなく、自分の心身が根本から変わることにある。そして金液還丹という道教の秘法の名を、肺の液を丹田に還す、つまり上にある気を下へ降ろすことだと、身体の言葉に読み替えてしまう。神秘めいた言葉を、誰にでも実践できる具体的な方法に翻訳する、白隠の手腕がよく表れている。
この章句が説くこと
金液還丹丹田神秘実践翻訳本質
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