うひ山ぶみ / 第十七段
然れどもその敎へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ人も有べきなれば、しひていふにはあらず、たゞ己が敎ヘによらんと思はん人のためにいふのみ也、
新字:然れどもその教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ人も有べきなれば、しひていふにはあらず、たゞ己が教ヘによらんと思はん人のためにいふのみ也、
書き下し
然れどもその教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべき歟と思へども、さてはわろしと思ふ人も有べきなれば、しひていふにはあらず、たゞ己が教ヘによらんと思はん人のためにいふのみ也、
現代語訳
しかしその教え方もまた人それぞれの考えによるものだから、自分はこうであるのがよいだろうかと思うけれども、それでは悪いと思う人もあるだろうから、強いて言うのではない。ただ自分の教えによろうと思う人のために言うだけである。
解説
前段の断りをさらに徹底する。自分の教え方が唯一の正解だとは主張しない、これでは駄目だと思う人もいるだろう、自分の教えに従いたい人のためだけに言うのだ、と。これから四十段以上にわたって具体的な指示を並べる直前に、その指示の効力範囲をあらかじめ限定している。宣長は当時すでに多くの門人を抱える大家であり、その立場で「強いて言うのではない」と書く意味は小さくない。教えを説く者が、自分の教えを相対化して差し出す。この態度そのものが、この書がいまも読まれる理由の一つである。
この章句が説くこと
教え方相対化謙抑師弟自由