うひ山ぶみ / 第九段
いかに初心なればとても、學問にもこゝろざすほどのものは、むげに小兒の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは、必ズあるものなり、
新字:いかに初心なればとても、学問にもこゝろざすほどのものは、むげに小児の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは、必ズあるものなり、
書き下し
いかに初心なればとても、学問にもこゝろざすほどのものは、むげに小児の心のやうにはあらねば、ほどほどにみづから思ひよれるすぢは、必ズあるものなり、
現代語訳
どれほど初心であっても、学問を志すほどの者は、まったくの子どもの心のようではないのだから、それなりに自分が心を寄せる方向は、必ずあるものである。
解説
前段の「本人に任せよ」の根拠を示す。学問を志すほどの人間なら、自覚の濃淡はあれ必ず自分の傾きを持っている、というのである。初心者を、白紙で何も持たない存在とは見ていない。だからこそ、外から与えるのではなく、すでにある傾きを本人が言葉にできるようにすればよい、という指導観が出てくる。「むげに小兒の心のやうにはあらねば」という言い方には、初学者を軽く扱わない態度が表れている。何を学びたいか分からないと言う人も、実は分かっていないのではなく、まだ言葉にできていないだけなのかもしれない。
この章句が説くこと
初心者関心自覚適性指導
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