うひ山ぶみ / 第三段
又の哥の學び有リ、それにも、哥をのみよむと、ふるき哥集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり、
新字:又の歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり、
書き下し
又の歌の学び有リ、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解キ明らむるとの二タやうあり、
現代語訳
また、歌の学びがある。それにも、歌をただ詠むことと、古い歌集や物語の書などを読み解いて明らかにすることの、二通りがある。
解説
歌の学びを二つに分ける。自分で詠むことと、古い歌集や物語を読み解くことである。宣長は後の段で、この二つは別物であり、歌学に詳しい人はかえって歌を詠むのが下手なことが多いとまで述べている。それでも両方を勧めるのは、詠むことでしか届かない深さがあると考えたからである。奥の注では、他人のこととして考えるのと自分のこととして考えるのとでは深さが違う、と説明している。読む側に回るのと作る側に回るのとでは、対象への理解の質が変わるということだ。研究と実作、批評と制作の関係は今も同じで、どちらか一方だけでは見えない領域がある。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
歌歌学実作読解和歌学びの二面
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うひ山ぶみ・第四十四段すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古への人のくはしき意、風雅のおもむきはしりがたし、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり歌学いかでか歌よむ妨ゲとはならん、妨ゲとなりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也、然れども歌学の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ、歌学のかたに深くかゝづらひては、仏書からぶみなどにも、広くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功をつひやすこともおほきぞかし、物語ぶみどもをもつねに見るべし、此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもらしつ、いにしへ人の風雅のおもむきをしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有ルべからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古ヘ人のみやびたる情をしり、すべて古ヘの雅たる世の有リさまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也、然るに世間の物学びする人々のやうを見渡すに、主と道を学ぶ輩は、上にいへるごとくにて、おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、
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うひ山ぶみ・第四十九段すべてみづから歌をもよみ、物がたりぶみなどをも常に見て、いにしへ人の、風雅のおもむきをしるは、歌まなびのためは、いふに及ばず、古の道を明らめしる学問にも、いみしくたすけとなるわざなりかし、