徒然草 / 第228段
千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人これを始められけり。
新字:千本の釈迦念仏は、文永のころ、如輪上人これを始められけり。
書き下し
千本の釈迦念仏は、文永のころ、如輪上人これを始められけり。
現代語訳
千本の釈迦念仏は、文永の頃、如輪上人がこれを始められた。
解説
京都・千本釈迦堂(大報恩寺)で行われた「釈迦念仏」という法会が、文永年間(1264〜1275年頃、鎌倉中期)に如輪上人によって始められたことを記す、一行に近いごく短い段です。前段の六時礼讃や次段の妙観の逸話と同様、誰がいつ何を始めたかという由来を簡潔に書き留めるだけで、感想や解釈はほとんど加えられていません。徒然草にはこうした短い考証的メモが数多く挟まれており、当時の寺社の行事や芸能・信仰の起源を、後世のために正確に書き残しておこうとする兼好の記録者としての一面がよく表れています。一見素っ気ない一文ですが、こうした断片的な記録の積み重ねが、後世の私たちが中世の宗教文化を知る手がかりになっているという点で、地道な記録の価値を教えてくれる段と言えるでしょう。
この章句が説くこと
千本釈迦念仏如輪上人文永釈迦堂考証由来
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