徒然草 / 第204段
犯人を笞にて打つ時は、拷器によせて結ひつくるなり。拷器のやうも、よする作法も今はわきまへ知れる人なしとぞ。
書き下し
犯人を笞にて打つ時は、拷器によせて結ひつくるなり。拷器のやうも、よする作法も今はわきまへ知れる人なしとぞ。
現代語訳
犯人を笞(むち)で打つ時には、拷器(ごうき、拷問の道具)に寄せて縛り付けるのである。拷器の形も、それに寄せる作法も、今では正しく知っている人がいないという。
解説
前段(第203段)に続き、廃れてしまった刑罰の作法についての考証です。犯人を笞打つ際に用いた「拷器」という道具と、それに縛り付ける手順が、兼好の時代にはすでに正しく伝わっていないと記されています。わずか二文の短い段ですが、律令制以来の刑罰制度が形骸化し、実務の細部が失われていく様子を淡々と記録している点に意味があります。兼好は法や制度そのものの是非を論じるのではなく、「かつて確かにあった作法が、今では誰も知らない」という事実だけを冷静に書き留めています。技術や作法は、使われなくなれば驚くほど早く忘れ去られるものです。現代でも、伝統工芸や古い実務の手順が、記録されないまま失われていく例は数多くあります。知っている人がいるうちに正確に書き残しておくことの重要性を、この短い段は端的に示しています。
この章句が説くこと
拷器笞犯人刑罰作法律令
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