徒然草 / 第173段
小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。
書き下し
小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。
現代語訳
小野小町のことは、まったくはっきりとしない。容色が衰えた様子は、『玉造』という文章に見える。この文章は清行が書いたという説があるが、弘法大師の著作の目録にも入っている。大師は承和年間の初めに亡くなられた。小町が全盛であったのは、その後のことであろうか、やはりはっきりしない。
解説
絶世の美女として知られる小野小町について、兼好は実像はまったく判然としないと率直に述べます。彼女の老いさらばえた姿を描いたとされる『玉造小町子壮衰書』という文献をめぐり、著者が三善清行だという説があるものの、弘法大師空海の著作目録にも同書が挙げられているという矛盾を指摘し、大師が亡くなった承和年間を基準にすると、小町の全盛期はその後になるはずで年代が合わない、と考証しています。伝説的な美女の実像を検証し、安易に伝承を鵜呑みにしない兼好の実証的・懐疑的な姿勢が表れた一段です。現代でも著名人にまつわる伝説や逸話がどこまで史実かを冷静に検証する姿勢は、情報の真偽を見極める上で変わらず重要な態度と言えるでしょう。
この章句が説くこと
小野小町玉造清行弘法大師承和考証
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷下去る夜半に曰く、兎角移らぬ物哉。あゝ苦労して何の用にも立たず、頓て打腐りて、只在りて果す迄よと也。
-
『玉勝間』五の巻 しのぶもぢずりされどまことに然かなりけんも知りがたきを、ひたぶるに偽言なりとは云うべくもあらず。その石の事は、とまれかくまれ、信夫郡より出だせりし事は、論無きをや。
-
『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井四つには、斎内親王の宮仕えし給うことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞こゆる詞あるべきに、さること一言も無くて、ゆくりなく大宮づかえと云うべき物かは。唯だ天皇に仕え奉る女官たちなる事、論無き物をや。五つには、ももしきの大宮人とは、天皇に仕え奉る人とこそ聞こえたれ。たとい本は大内より来し人なればとても、今斎王に仕え奉り居る人を、うちまかせて然か云わん事はいかが。六つには、もし斎王の大御神に仕え給う事を詠める歌ならむには、反歌に御井の事のみを詠めるは、何のよしぞや。七つには、かの鈴鹿郡なる山の辺の事を、俗説なりとて、やぶられたるもあたらず。俗説とは、赤人の跡と云う事なり。赤人の事は、山辺という地の名によりて、附会したる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨てたらむに、何の俗なる事か有らん。そもそもしか赤人の事を云いよせたるも、もと山辺という所、又古き清水のある故なれば、それもかえりて、古き跡なる証とこそすべけれ。又かの山辺村に、古え倭姫の命の宮有りしと云うも、偽なりとて、そのよしを論ぜられたるもあたらず。
-
論語・述而篇子曰わく、述べて作らず、信じて古を好む。竊かに我を老彭に比す。
-
『夜船閑話』序住菴の諸子各々悲泣作礼して云く、吾が師大慈大悲、願くは内観の大略を書せよ。書して留めて後来禅病疲倦吾が輩の如き者を救へ。師即ち頷す。立処に草稿成る。
-
『幽夢影』巻上・古の今に傳はらざる者古の今に傳はらざる者は、嘯なり、劍術なり、彈棋なり、打球なり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る