徒然草 / 第169段
「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり。」と、人の申し侍りしに、建禮門院の右京大夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住したることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも。」と書きたり。
新字:「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり。」と、人の申し侍りしに、建礼門院の右京大夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住したることをいふに、「世の式も変りたる事はなきにも。」と書きたり。
書き下し
「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり。」と、人の申し侍りしに、建礼門院の右京大夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住したることをいふに、「世の式も変りたる事はなきにも。」と書きたり。
現代語訳
「何々の式ということは、後嵯峨天皇の御代までは言わなかったのに、近頃から使われるようになった言葉である」と、ある人が申していたところ、建礼門院右京大夫が、後鳥羽院が退位された後、また内裏で暮らすようになったことを書く際に、「世の中の儀式のあり方も、変わったことはないけれども」と書いている。
解説
ある人が「〜の式」という言い回しは後嵯峨天皇の時代までは使われておらず、近年になって用いられるようになった新しい言葉だと主張したのに対し、兼好は建礼門院右京大夫の記述における用例を挙げて、実はそれ以前から使われていたことを示唆しています。建礼門院右京大夫は平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した女房で、後鳥羽院に関する記述の中で既に「式」という語を使っていました。これは言葉の起源や用法についての考証、いわば中世版の語源探求であり、兼好の博識と実証的な姿勢がうかがえる一段です。現代でも「この表現は最近の若者言葉だ」といった思い込みが、実は古くからある用法だったと判明することがあり、言葉の歴史を安易に決めつけない姿勢の大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
式後嵯峨建礼門院右京大夫後鳥羽院言葉の由来考証
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