都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
推量トハ雲泥違所ナリ、或儒者、田舎ヘ通フ商人ト親類ニテ、互ニ因セラレシニ、儒者ノ曰、汝モ少々ハ學問セラレヨカシ、如何トシテモ文盲ナリト云レケレバ、商人ノ云、我少モ文盲ナルコト候ハズ、斯ノ如ク絹布ニ札ヲ付、何國ニテ賣ベキ心當モナケレドモ、賣買シテ父母妻子ヲ養ヒ、家內ヲ治メリ、汝ガ如ク文字ヲ效バ、文字ヲ讀、汝我ニ代テ、一日コレヲ勉見ヨ、賣買ノコトハ知ラズト云ハヾ、我ニ替ルコトナシ、我職分ヲ知レバ事ハ足レリ、汝箇程ノ理ヲ不知ハ、夫ヲ學者ト云ベキヤ、彼儒者モ、中京ニテ、近代誰ト世ニ知レシ儒者ナレドモ、彼レガ理ノ明ナルニ及ザレバ、答フベキコトナシ、文學ナケレドモ、足ルコトヲ知ル者ハカクノ如シ、
新字:推量トハ雲泥違所ナリ、或儒者、田舎ヘ通フ商人ト親類ニテ、互ニ因セラレシニ、儒者ノ曰、汝モ少々ハ学問セラレヨカシ、如何トシテモ文盲ナリト云レケレバ、商人ノ云、我少モ文盲ナルコト候ハズ、斯ノ如ク絹布ニ札ヲ付、何国ニテ売ベキ心当モナケレドモ、売買シテ父母妻子ヲ養ヒ、家内ヲ治メリ、汝ガ如ク文字ヲ効バ、文字ヲ読、汝我ニ代テ、一日コレヲ勉見ヨ、売買ノコトハ知ラズト云ハヾ、我ニ替ルコトナシ、我職分ヲ知レバ事ハ足レリ、汝箇程ノ理ヲ不知ハ、夫ヲ学者ト云ベキヤ、彼儒者モ、中京ニテ、近代誰ト世ニ知レシ儒者ナレドモ、彼レガ理ノ明ナルニ及ザレバ、答フベキコトナシ、文学ナケレドモ、足ルコトヲ知ル者ハカクノ如シ、
書き下し
推量とは雲泥違ふ所なり。或儒者、田舎へ通ふ商人と親類にて、互ひに因せられしに、儒者の曰く、汝も少々は学問せられよかし、如何としても文盲なりと云はれければ、商人の云ふ、我少しも文盲なること候はず。斯くの如く絹布に札を付け、何国にて売るべき心当てもなけれども、売買して父母妻子を養ひ、家内を治めり。汝が如く文字を效へば、文字を読む。汝我に代りて、一日これを勉め見よ。売買のことは知らずと云はば、我に替ることなし。我が職分を知れば事は足れり。汝箇程の理を知らずば、夫を学者と云ふべきや。彼の儒者も、中京にて、近代誰と世に知れし儒者なれども、彼れが理の明らかなるに及ばざれば、答ふべきことなし。文学なけれども、足ることを知る者はかくの如し。
現代語訳
推し量るのとは雲泥の違いなのです。ある儒者が、田舎へ行商に通う商人と親類で、互いに付き合いがありました。儒者が『あなたも少しは学問をしなさい。どうにも無学だ』と言うと、商人は言いました。『私は少しも無学ではありません。このように絹や布に値札をつけ、どこで売れるという当てもないのに、売り買いして父母妻子を養い、家の内を治めています。あなたのように文字を習えば文字が読めます。あなたが私に代わって、一日これを勤めてごらんなさい。売り買いのことは知らないと言うなら、私と変わりはありません。自分の職分を知っていれば事は足ります。あなたはこれほどの理が分からないのに、それで学者と言えるのですか』。その儒者は京の中京で当時名の知れた儒者でしたが、商人の理の明らかさに及ばず、答えられませんでした。学問がなくても、足ることを知る者はこのようなものです。
解説

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