都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
是ニテ陰陽陰陽ト、生成シテ不止コトヲ知ルベシ、天ハ一、地ハ二、萬物ハ三、天地有テ後ノ萬物ナリ、人ハ萬物ノ靈ナルユヘニ、萬物ヲ人ニ總合、三ニ生ルユヘニ、人ハ寅ニ生ズトモ云ベシ、又人、母ノ胎內ニ宿ル時ハ、一滴ノ水ナリ、是雞ノ子ノ如クニシテ、牙ヲ含リ、其中ニ淸陽ナル者、虛ニシテ心トナルハ、天ノ開ナリ、重濁者形トナルハ、地ノ闢ナリ、頭ノ形高ナルハ、葦牙ノ如シトモ云ベシ、如是見バ、天地開闢ノ理ハ、我一身ニモ具レリ、此ヲ味ヒ見バ、天地ノ始終ハ、古今共ニ同ジ、ソレヲ今此上下ノ天地、ヒラケ始ルコト有トノ玉ヒシコトヽ、一概ニ見ナシ、又天ハ子ニ闢ノ、地ハ丑ニ闢ノ、人ハ寅ニ生ルノト、字面ニカヽワリ、
新字:是ニテ陰陽陰陽ト、生成シテ不止コトヲ知ルベシ、天ハ一、地ハ二、万物ハ三、天地有テ後ノ万物ナリ、人ハ万物ノ霊ナルユヘニ、万物ヲ人ニ総合、三ニ生ルユヘニ、人ハ寅ニ生ズトモ云ベシ、又人、母ノ胎内ニ宿ル時ハ、一滴ノ水ナリ、是鶏ノ子ノ如クニシテ、牙ヲ含リ、其中ニ清陽ナル者、虚ニシテ心トナルハ、天ノ開ナリ、重濁者形トナルハ、地ノ闢ナリ、頭ノ形高ナルハ、葦牙ノ如シトモ云ベシ、如是見バ、天地開闢ノ理ハ、我一身ニモ具レリ、此ヲ味ヒ見バ、天地ノ始終ハ、古今共ニ同ジ、ソレヲ今此上下ノ天地、ヒラケ始ルコト有トノ玉ヒシコトヽ、一概ニ見ナシ、又天ハ子ニ闢ノ、地ハ丑ニ闢ノ、人ハ寅ニ生ルノト、字面ニカヽワリ、
書き下し
是にて陰陽陰陽と、生成して止まざることを知るべし。天は一、地は二、万物は三、天地有りて後の万物なり。人は万物の霊なるゆへに、万物を人に総合し、三に生ずるゆへに、人は寅に生ずとも云ふべし。又人、母の胎内に宿る時は、一滴の水なり。是れ雞の子の如くにして、牙を含めり。其の中に清陽なる者、虚にして心となるは、天の開くるなり。重濁なる者形となるは、地の闢くるなり。頭の形の高きは、葦牙の如しとも云ふべし。是くの如く見ば、天地開闢の理は、我が一身にも具はれり。此れを味はひ見ば、天地の始終は、古今共に同じ。それを今此の上下の天地、ひらけ始まること有りとの玉ひしことと、一概に見なし、又天は子に闢くるの、地は丑に闢くるの、人は寅に生るるのと、字面にかかわり、
現代語訳
これで陰陽が交互に生成してやまないことが分かるでしょう。天は一、地は二、万物は三で、天地があって後に万物があります。人は万物の霊長ですから、万物を人にまとめて三に生まれるとすれば、人は寅に生まれるとも言えます。また人が母の胎内に宿る時は一滴の水です。これが鶏の卵のようで、芽を含んでいます。その中の清く明るいものが虚となって心になるのは天が開けることであり、重く濁ったものが形となるのは地が開けることです。頭の形が高いのは葦の芽のようだとも言えます。このように見れば、天地開闢の理は自分の一身にも具わっています。これを味わえば、天地の始まりと終わりは昔も今も同じです。それを、いまこの上下の天地が開け始めることがあったと言われたことと一概に見なして、また天は子に開ける、地は丑に開ける、人は寅に生まれるなどと字面にこだわり、
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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『弁名』理氣人欲理は、事物皆自然に之れ有り。我が心を以て之を推度して、其の必ず当に是くの若くなるべきと必ず是くの若くなるべからざるとを見る有り。是れ之を理と謂ふ。凡そ人善を為さんと欲するも、亦た其の理の為すべきを見て之を為す。悪を為さんと欲するも、亦た其の理の為すべきを見て之を為す。皆我が心其の為すべきを見て之を為す。故に理は定準無き者なり。何となれば、理は適くとして在らざる無き者なり。而して人の見る所、各々其の性を以て殊なり。辟へば則ち飴は一なり。伯夷之を見て曰く、「以て老を養ふべし」と。盗跖之を見て曰く、「以て枢に沃ぐべし」と。是れ它無し。人各々其の見る所を見て、其の見ざる所を見ず。故に殊なるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。
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