都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
如何ナルコトゾ、皆象ヲ假テ義ヲ顯、其體ハ微妙ノ理ニシテ、見ルベキニアラズ、見ヘザレバ、左ニアラズト云テ、古人ノ書ヲ破リ舍ンヤ、天地未闢ノ說、又天ハ子ニ闢クルノ說、是皆天地ハ、自然ノ次第ナルコトヲ、知ラシメン爲ナリト知ラルベシ、我性ヲ知テ、萬事ノ說ヲ見バ、掌ヲ見ル如ク、昭然トシテ疑ナカルベシ、今草木ノ生出ルヲ見レバ、始ハ種土中ニ有テ、渾ジテ分レズ、ソレヨリ錐ノ先ノ如クニ成ルハ、自然ニ陽ノ形ニシテ、皆葦牙如クナリ、二葉ニ分ルハ、平ニシテ陰ノ形ナリ、二葉ノ中ヨリ心ノ立出ルハ、陰ヨリ出ルノ陽ナリ、其草木梢ニ至ルマデ、陰陽陰陽ト生々ス、易ノ上繫辭傳ニ、天一地二天三地四天五地六天七地八天九地十ト說玉フ、
新字:如何ナルコトゾ、皆象ヲ仮テ義ヲ顕、其体ハ微妙ノ理ニシテ、見ルベキニアラズ、見ヘザレバ、左ニアラズト云テ、古人ノ書ヲ破リ舎ンヤ、天地未闢ノ説、又天ハ子ニ闢クルノ説、是皆天地ハ、自然ノ次第ナルコトヲ、知ラシメン為ナリト知ラルベシ、我性ヲ知テ、万事ノ説ヲ見バ、掌ヲ見ル如ク、昭然トシテ疑ナカルベシ、今草木ノ生出ルヲ見レバ、始ハ種土中ニ有テ、渾ジテ分レズ、ソレヨリ錐ノ先ノ如クニ成ルハ、自然ニ陽ノ形ニシテ、皆葦牙如クナリ、二葉ニ分ルハ、平ニシテ陰ノ形ナリ、二葉ノ中ヨリ心ノ立出ルハ、陰ヨリ出ルノ陽ナリ、其草木梢ニ至ルマデ、陰陽陰陽ト生々ス、易ノ上繋辞伝ニ、天一地二天三地四天五地六天七地八天九地十ト説玉フ、
書き下し
如何なることぞ。皆象を仮りて義を顕はす。其の体は微妙の理にして、見るべきにあらず。見へざれば、左にあらずと云ひて、古人の書を破り舎てんや。天地未だ闢けずの説、又天は子に闢くるの説、是れ皆天地は、自然の次第なることを、知らしめん為なりと知らるべし。我が性を知りて、万事の説を見ば、掌を見る如く、昭然として疑ひなかるべし。今草木の生ひ出づるを見れば、始めは種土中に有りて、渾じて分れず。それより錐の先の如くに成るは、自然に陽の形にして、皆葦牙の如くなり。二葉に分るるは、平らにして陰の形なり。二葉の中より心の立ち出づるは、陰より出づるの陽なり。其の草木梢に至るまで、陰陽陰陽と生々す。易の上繋辞伝に、天一地二天三地四天五地六天七地八天九地十と説き玉ふ。
現代語訳
どういうことでしょうか。どれも象(かたち)を借りて意義を表しているのです。その本体は微妙な理で、目に見えるものではありません。見えないから違うと言って、古人の書を破り捨てるのですか。天地が開けなかったという説や、天は子に開けるという説は、どれも天地が自然の順序によるものだと知らせるためだと心得なさい。自分の本性を知ったうえで万事の説を見れば、手のひらを見るように明らかで、疑いはなくなるでしょう。いま草木が生え出るのを見ると、初めは種が土中にあって混じり合って分かれていません。そこから錐の先のようにとがって出るのは、自然に陽の形で、みな葦の芽のようです。二葉に分かれるのは平らで陰の形です。二葉の中から芯が立ち出るのは、陰から出る陽です。その草木は梢に至るまで、陰陽陰陽と生々しています。易の繋辞上伝に『天一地二天三地四天五地六天七地八天九地十』と説かれているとおりです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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老子・第21章孔徳の容は、惟だ道に是れ従う。道の物たる、惟だ恍惟だ惚。惚たり恍たり、其の中に象有り。恍たり惚たり、其の中に物有り。窈たり冥たり、其の中に精有り。其の精は甚だ真にして、其の中に信有り。古より今に及ぶまで、其の名は去らず、以て衆甫を閲す。吾れ何を以て衆甫の状を知るや。此を以てなり。
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段其の継ぐ者を知り得れば、忽ちに疑ひは晴るる者なり。天地未だ闢けずの説、又天は子に闢け、地は丑に闢け、人は寅に生るなどの説も、怪しきに似たれども、皆々当る所あり。夫を辞に泥むこと有りては、書は見へざる者なり。易の卦を以て、月に配して云ふ時は、十月は純陰なり。十一月冬至の日、一陽来復するといへども、天地の間に、何方を見ればとて、是に一陽来れりとも見へず。初陽は潜みかくるるゆへに、見へずと云はば、正月には三陽生じて、花咲き鳥鳴くといへども、其の体は見へず。又乾は龍となし、坤は牝馬となし、陰陽を龍と馬とに喩ふ。是も文字に泥み、陰陽は直に龍馬なりと云ふべきや。周公旦の譬へは疑はず、親王の譬へに、状葦牙の如しと説き玉ふことを疑ふは、
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段是にて陰陽陰陽と、生成して止まざることを知るべし。天は一、地は二、万物は三、天地有りて後の万物なり。人は万物の霊なるゆへに、万物を人に総合し、三に生ずるゆへに、人は寅に生ずとも云ふべし。又人、母の胎内に宿る時は、一滴の水なり。是れ雞の子の如くにして、牙を含めり。其の中に清陽なる者、虚にして心となるは、天の開くるなり。重濁なる者形となるは、地の闢くるなり。頭の形の高きは、葦牙の如しとも云ふべし。是くの如く見ば、天地開闢の理は、我が一身にも具はれり。此れを味はひ見ば、天地の始終は、古今共に同じ。それを今此の上下の天地、ひらけ始まること有りとの玉ひしことと、一概に見なし、又天は子に闢くるの、地は丑に闢くるの、人は寅に生るるのと、字面にかかわり、
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段曲に泥むことあつては、書を見るとも不審ばかり出でて、心を解くの楽しみとは成るまじ。滞りて困しむは、我が知の開けざる所なりと知るべし。子思曰く、今夫れ天は斯の昭々の多きなり、其の窮まり無きに及んでは、日月星辰繋り、万物覆はると。此の味を見て知るべし。天は広大なれども、耿々と少しばかり明らかなる、器の中の天を見て、其の高大の天を知るべし。聖人も、天地の外を、巡り見玉ふにはあらず。子曰く、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなりと。前を推して後を知り、今より推して始めを知る。人と生るれば、仁義礼智の性は、古今相続きて変らず。是れ天地に有りては元亨利貞と云ふ。名は替れども、万物の理は一なり。一物を知り得れば、一物の中に、万物の理はこもれり。然れども此の微妙の理は、容易く知るべき所にあらず。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段万物生生して古今違はず。其生々を継物を善と云。分ていはゞ、天は形なふして心の如し、地は形有て物の如し。其生々する所は活物の如し、無心なる所は死物の如し。天地は、死活の二を兼たる物なり。死活の二を兼すぶるゆへに、万物の体となる。其物を暫く名づけて、理とも性とも善とも云。然るに私意を用ゆる者は、天地は活物なりと、一方を知て、死活を摂て、一理なることを知らず。因て害をなすこと甚し。是故に、孔子、異端を攻むるは斯れ害あるのみとの玉ふことなり。天地を、人の上にていはゞ、心は虚にして天なり、形はふさがつて地なり、呼吸は陰陽なり、これを継者は善なり、用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ、人は全体一箇の小天地なり。我も一箇の天地と知らば、何に不足の有べきや。告子は是を知らず、生滅にあづかる思慮を以て、我性と思。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば、思慮なき天理に異るゆへなり。此味ひを知らざる者は、天道に合はざるゆへに異端と云。渾然たる一理の性に至れる孟子には異る所なり。
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段答、太子・親王は、聖徳御座して、世に賢く渡らせたまひ、書き伝へ、我が朝の記録となし玉ふは、如何なることぞと心を付くべし。此の御旁、天地未だ開けず、渾然たる時有りて、其の時にも人有りと思し召し玉ふべきや。今日短才の者にても、箇程のことは知るぞかし。其れに心をつけざるは、愚昧の者にあらずや。神聖其の中に生るとある其の神は、今日に至りても在すや在さざるや。在さずば、今は神国とは云はれまじ。在さば何れに在すぞ。其の時には見はれ在し、今は隠れ在すかと、黙して心を尽さば、夜の暁くる時節あるべし。汝は自心のくらきことを知らずして、心の明らかなる親王の、筆記し玉ふ書を廃せんと思ふは、暗夜に灯火を以て、天を窺ふが如し。扠我も前つかたは、天地未だ闢けずの説を非として、