都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
答、太子親王ハ、聖德御座、世ニ賢ク渡ラセタマヒ、書傳ヘ、我朝ノ記錄トナシ玉フハ、如何ナルコトゾト心ヲ付ベシ、此御旁天地未開、渾然タル時有テ、其時ニモ人有ト思召玉フベキヤ、今日短才ノ者ニテモ、箇程ノコトハ知ルゾカシ、其ニ心ヲツケザルハ、愚昧ノ者ニアラズヤ、神聖生其中トアル其神ハ、今日ニ至テモ在ヤ在ザルヤ、在サズバ、今ハ神國トハ云ハレマジ、在バ何レニ在ゾ、其時ニハ見レ在シ、今ハ隱在カト、默シテ心ヲ盡サバ、夜ノ曉時節アルベシ、汝ハ自心ノクラキコトヲ不知シテ、心ノ明ナル親王ノ、筆記シ玉フ書ヲ廢セント思フハ、暗夜ニ燈火ヲ以テ、天ヲ窺フガ如シ、扠我モ前ツカタハ、天地未闢ノ說ヲ非トシテ、
新字:答、太子親王ハ、聖徳御座、世ニ賢ク渡ラセタマヒ、書伝ヘ、我朝ノ記録トナシ玉フハ、如何ナルコトゾト心ヲ付ベシ、此御旁天地未開、渾然タル時有テ、其時ニモ人有ト思召玉フベキヤ、今日短才ノ者ニテモ、箇程ノコトハ知ルゾカシ、其ニ心ヲツケザルハ、愚昧ノ者ニアラズヤ、神聖生其中トアル其神ハ、今日ニ至テモ在ヤ在ザルヤ、在サズバ、今ハ神国トハ云ハレマジ、在バ何レニ在ゾ、其時ニハ見レ在シ、今ハ隠在カト、黙シテ心ヲ尽サバ、夜ノ暁時節アルベシ、汝ハ自心ノクラキコトヲ不知シテ、心ノ明ナル親王ノ、筆記シ玉フ書ヲ廃セント思フハ、暗夜ニ灯火ヲ以テ、天ヲ窺フガ如シ、扠我モ前ツカタハ、天地未闢ノ説ヲ非トシテ、
書き下し
答、太子・親王は、聖徳御座して、世に賢く渡らせたまひ、書き伝へ、我が朝の記録となし玉ふは、如何なることぞと心を付くべし。此の御旁、天地未だ開けず、渾然たる時有りて、其の時にも人有りと思し召し玉ふべきや。今日短才の者にても、箇程のことは知るぞかし。其れに心をつけざるは、愚昧の者にあらずや。神聖其の中に生るとある其の神は、今日に至りても在すや在さざるや。在さずば、今は神国とは云はれまじ。在さば何れに在すぞ。其の時には見はれ在し、今は隠れ在すかと、黙して心を尽さば、夜の暁くる時節あるべし。汝は自心のくらきことを知らずして、心の明らかなる親王の、筆記し玉ふ書を廃せんと思ふは、暗夜に灯火を以て、天を窺ふが如し。扠我も前つかたは、天地未だ闢けずの説を非として、
現代語訳
梅岩は答えます。「太子や親王は聖徳を備えた賢い方々です。その方々がこれを書き伝え、わが国の記録となさったのはどういうことか、と心をつけてみなさい。この方々が、天地がまだ開けず混沌としていた時にも人がいて見ていた、とお考えになったでしょうか。今日の才の乏しい者でも、それくらいのことは分かります。そこに心をつけないのは愚かではありませんか。『神がその中に生まれた』とあるその神は、今日もおられるのか、おられないのか。おられないなら、今は神国とは言えないでしょう。おられるなら、どこにおられるのか。その時には現れておられ、今は隠れておられるのか、と黙って心を尽くせば、夜が明けるように分かる時が来るでしょう。自分の心の暗さを知らずに、心の明らかな親王の書いた書を捨てようと思うのは、暗い夜に灯火で天をうかがうようなものです。さて、私も以前は天地開闢の説を誤りとして、
解説

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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。