都鄙問答 / 卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段
他ヲ迷ハセタルコトモアリシニ、今ニ至テ見レバ、愚ナル處ヨリ、古人ヲ議侍リシモ悔シ、然レドモ猿賢者ハ、十人ガ九人マデハ、能肯議論ニテ、汝ガ如ク云フ者ヲ、反テ知者ノヤウニ思フモノナリ、汝モ世間ノ少シ學問アル者ニ云聞サバ、是ハ發明ナル見識ナリト思ヒ、汝ヲ知者ノヤウニ思フベシ、知者ト思ハルヽ汝ノ愚ハ、思フ者ヨリ勝レル愚ナリ、今云所ニ心ヲツケラレナバ、解ル時節モアルベシ、扠易ノ畫八卦伏義ヨリ始ル、象ノ辭ハ、周ニ至テ、文王始テ繫玉フ、爻ノ辭ハ、周公旦ニ始リ、傳ハ、孔子天地人ヲ交テ釋玉フ、易ハ變易ニシテ、古今不變モノハ理ナリ、理ヲ以テイヘバ、天人一致ニシテ今日ニ至リ、人間畜類マデ、銘々繼來ル者ハ理ナリ、
新字:他ヲ迷ハセタルコトモアリシニ、今ニ至テ見レバ、愚ナル処ヨリ、古人ヲ議侍リシモ悔シ、然レドモ猿賢者ハ、十人ガ九人マデハ、能肯議論ニテ、汝ガ如ク云フ者ヲ、反テ知者ノヤウニ思フモノナリ、汝モ世間ノ少シ学問アル者ニ云聞サバ、是ハ発明ナル見識ナリト思ヒ、汝ヲ知者ノヤウニ思フベシ、知者ト思ハルヽ汝ノ愚ハ、思フ者ヨリ勝レル愚ナリ、今云所ニ心ヲツケラレナバ、解ル時節モアルベシ、扠易ノ画八卦伏義ヨリ始ル、象ノ辞ハ、周ニ至テ、文王始テ繋玉フ、爻ノ辞ハ、周公旦ニ始リ、伝ハ、孔子天地人ヲ交テ釈玉フ、易ハ変易ニシテ、古今不変モノハ理ナリ、理ヲ以テイヘバ、天人一致ニシテ今日ニ至リ、人間畜類マデ、銘々継来ル者ハ理ナリ、
書き下し
他を迷はせたることもありしに、今に至りて見れば、愚かなる処より、古人を議り侍りしも悔し。然れども猿賢き者は、十人が九人までは、能く肯ふ議論にて、汝が如く云ふ者を、反りて知者のやうに思ふものなり。汝も世間の少し学問ある者に云ひ聞かさば、是は発明なる見識なりと思ひ、汝を知者のやうに思ふべし。知者と思はるる汝の愚は、思ふ者より勝れる愚なり。今云ふ所に心をつけられなば、解くる時節もあるべし。扠易の画八卦は伏義より始まる。象の辞は、周に至りて、文王始めて繋け玉ふ。爻の辞は、周公旦に始まり、伝は、孔子天地人を交へて釈き玉ふ。易は変易にして、古今変らざるものは理なり。理を以ていへば、天人一致にして今日に至り、人間畜類まで、銘々継ぎ来る者は理なり。
現代語訳
人を迷わせたこともありましたが、今になってみると、愚かさから古人をそしったことが悔やまれます。しかし小賢しい者は、十人のうち九人までが同調する議論なので、あなたのように言う者をかえって知恵者のように思うものです。あなたも世間の少し学問のある者に言い聞かせれば、これは優れた見識だと思われ、知恵者と見られるでしょう。知恵者と思われるあなたの愚かさは、そう思う者よりも勝った愚かさです。今言ったことに心をつけられれば、分かる時も来るでしょう。さて、易の八卦を画したのは伏羲に始まり、卦の辞は周の文王が初めてつけ、爻の辞は周公旦に始まり、伝は孔子が天地人をあわせて説きました。易とは変わることですが、昔も今も変わらないものは理です。理から言えば、天と人は一つで今日に至り、人間から畜類まで、それぞれが受け継いできたものは理なのです。
解説

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関連する章句
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『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。