都鄙問答 / 卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段
客退テ後、或人曰、最前ヨリ客トノ問答ヲ聞ニ、汝ノ云ヘル所、一通リハ相聞ヘ、法式ニ背コトモ有マジ、然レドモ、時ヲ不知所アリ、今日ニ違テハ、世間ノ交ナルベカラズ、世ノ交ヲカキテハ、人ノ道ニアラズ、大聖孔子モ、鳥獸ニハ、與ニ群ヲ同フスベカラズ、吾斯人ノ徒ト與ニスルニアラズシテ、誰ト與ニセントノ玉ヒ、人タル者ノ交ヲ絕コトヲ悵玉フ、客ト云ル先ノ親方ノ、他借ヲ返サズシテ死ス、夫ヲ果報人ニテ終レリト云ハ、極テ非ナリ、又今ノ親方ノ仕方、假令法ニハ不背トモ、人ニ替リタル行ニテ、世ノ交ヲ絕、コレハ又是ニ似テ非ナリ、中庸ヲ以テ見レバ、過不及有テ、雙方トモニ中ラザルコトナリ、二人ノ行ヲ合テ、其中ヲ取テ行バ可ナラン、然レバ木綿布子ニ生布ノ帷子、高宮羽織ハ不及ナリ、忽ニ今日ノ交スマズ、其スマヌコトヲ尊ブハ、如何ナルコトゾヤ、
新字:客退テ後、或人曰、最前ヨリ客トノ問答ヲ聞ニ、汝ノ云ヘル所、一通リハ相聞ヘ、法式ニ背コトモ有マジ、然レドモ、時ヲ不知所アリ、今日ニ違テハ、世間ノ交ナルベカラズ、世ノ交ヲカキテハ、人ノ道ニアラズ、大聖孔子モ、鳥獣ニハ、与ニ群ヲ同フスベカラズ、吾斯人ノ徒ト与ニスルニアラズシテ、誰ト与ニセントノ玉ヒ、人タル者ノ交ヲ絶コトヲ悵玉フ、客ト云ル先ノ親方ノ、他借ヲ返サズシテ死ス、夫ヲ果報人ニテ終レリト云ハ、極テ非ナリ、又今ノ親方ノ仕方、仮令法ニハ不背トモ、人ニ替リタル行ニテ、世ノ交ヲ絶、コレハ又是ニ似テ非ナリ、中庸ヲ以テ見レバ、過不及有テ、双方トモニ中ラザルコトナリ、二人ノ行ヲ合テ、其中ヲ取テ行バ可ナラン、然レバ木綿布子ニ生布ノ帷子、高宮羽織ハ不及ナリ、忽ニ今日ノ交スマズ、其スマヌコトヲ尊ブハ、如何ナルコトゾヤ、
書き下し
客退いて後、或人曰く、最前より客との問答を聞くに、汝の云へる所、一通りは相聞え、法式に背くことも有るまじ。然れども、時を知らざる所あり。今日に違ひては、世間の交はりなるべからず。世の交はりをかきては、人の道にあらず。大聖孔子も、鳥獣とは、与に群を同じうすべからず、吾斯の人の徒と与にするにあらずして、誰と与にせんと宣ひ、人たる者の交はりを絶つことを悵み玉ふ。客と云へる先の親方の、他借を返さずして死す、夫れを果報人にて終れりと云ふは、極めて非なり。又今の親方の仕方、仮令法には背かずとも、人に替りたる行ひにて、世の交はりを絶つ、これは又是に似て非なり。中庸を以て見れば、過不及有りて、双方ともに中らざることなり。二人の行ひを合せて、其の中を取りて行はゞ可ならん。然れば木綿布子に生布の帷子、高宮羽織は及ばざるなり。忽ちに今日の交はりすまず。其のすまぬことを尊ぶは、如何なることぞや。
現代語訳
客が帰った後、ある人が言いました。「先ほどから客との問答を聞いていると、あなたの言うことは一通り筋が通っていて、決まりに背くこともないでしょう。けれども、時勢を知らないところがあります。今の世に合わなければ世間づきあいはできません。世のつきあいを欠いては人の道ではありません。偉大な聖人孔子も『鳥や獣とは群れを同じくできない。私はこの人々の仲間と共にいなければ、誰と共にいようか』と言われ、人としてのつきあいを絶つことを嘆かれました。客の言う先代の主人が、借金を返さずに死んだのを果報者として終わったと言うのは、まったくの誤りです。しかし今の主人のやり方も、たとえ決まりには背かなくても、人と変わった行いで世間づきあいを絶っています。これもまた、正しいようでいて正しくありません。中庸から見れば、行き過ぎと足りなさがあって、どちらも的を外れています。二人の行いを合わせて、その真ん中を取って行えばよいでしょう。そうすれば、木綿の綿入れに生布の単衣、高宮の羽織は足りなさの側です。これでは今日のつきあいはすぐに成り立ちません。その成り立たないことを尊ぶのは、どういうことですか。」
解説

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