師導古典を学びたいすべての人に

都鄙問答 / 卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段

曰、中庸ニ、所謂聖人ハ、素夷狄行夷狄トアリ、又君子ハ無所爭トモアリ、然ルニ親類一家中ト、盡爭ヒ逆フ、コレラハ如何、答、汝、經書ヲ見テモ、一ッモ理ヲ辨知ルコトナシ、程子曰、吾自十七八讀論語、當時已曉文義ト、書ヲヨムコトハ、我ニ會得センガ爲ナリ、聖人、夷狄ニテハ夷狄ヲ行フトノ玉フハ、夷狄ノ法ヲ背カズシテ、而モ道ニ合フヤウニスベシトノ玉フコトナリ、又君子無所爭トノ玉フハ、不義ヲ以テ、人ニ爭ハズトノ玉フコトニテ、義ヲ以テ、他ノ不義ヲ正スコトハアルベシ、此故ニ湯王モ、義ヲ以テ桀ヲ南巢ニ放、武王伐紂、是我ニ義有レバ、爭所ノ證ナリ、汝今ノ親方ハ、天下ノ御法ニソムカズ、義ヲ以テ行フユヘニ、

新字:曰、中庸ニ、所謂聖人ハ、素夷狄行夷狄トアリ、又君子ハ無所争トモアリ、然ルニ親類一家中ト、尽争ヒ逆フ、コレラハ如何、答、汝、経書ヲ見テモ、一ッモ理ヲ弁知ルコトナシ、程子曰、吾自十七八読論語、当時已暁文義ト、書ヲヨムコトハ、我ニ会得センガ為ナリ、聖人、夷狄ニテハ夷狄ヲ行フトノ玉フハ、夷狄ノ法ヲ背カズシテ、而モ道ニ合フヤウニスベシトノ玉フコトナリ、又君子無所争トノ玉フハ、不義ヲ以テ、人ニ争ハズトノ玉フコトニテ、義ヲ以テ、他ノ不義ヲ正スコトハアルベシ、此故ニ湯王モ、義ヲ以テ桀ヲ南巣ニ放、武王伐紂、是我ニ義有レバ、争所ノ証ナリ、汝今ノ親方ハ、天下ノ御法ニソムカズ、義ヲ以テ行フユヘニ、

書き下し

曰く、中庸に、所謂聖人は、夷狄に素しては夷狄に行ふとあり、又君子は争ふ所無しともあり。然るに親類一家中と、尽く争ひ逆らふ。これらは如何。答ふ、汝、経書を見ても、一つも理を弁へ知ることなし。程子曰く、吾十七八より論語を読み、当時已に文義を暁ると。書をよむことは、我に会得せんが為なり。聖人、夷狄にては夷狄を行ふと宣ふは、夷狄の法を背かずして、而も道に合ふやうにすべしと宣ふことなり。又君子争ふ所無しと宣ふは、不義を以て、人に争はずと宣ふことにて、義を以て、他の不義を正すことはあるべし。此の故に湯王も、義を以て桀を南巣に放ち、武王紂を伐つ。是れ我に義有れば、争ふ所の証なり。汝今の親方は、天下の御法にそむかず、義を以て行ふゆへに、

現代語訳

問う人が言いました。「中庸には『聖人は、夷狄の地にいれば夷狄の中で行う』とあり、また『君子は争うところがない』ともあります。それなのに主人は、親類一族とことごとく争い、逆らいます。これはどうでしょう。」梅岩は答えました。「あなたは経書を読んでも、一つも道理をわきまえていません。程子は『私は十七、八歳から論語を読み、その時すでに文の意味は分かっていた』と言いました。書を読むのは、自分の身に会得するためです。聖人が夷狄の中では夷狄のように行うと言われたのは、夷狄の決まりに背かずに、しかも道にかなうようにせよ、ということです。また君子は争うところがないと言われたのは、不義によって人と争わないということで、義によって他人の不義を正すことはあるのです。だから湯王も義によって桀を南巣に追放し、武王は紂を討ちました。これは自分に義があれば争うこともあるという証拠です。あなたの今の主人は、天下の法に背かず、義によって行っているので、

解説

親類と争う主人は「君子は争わず」に反するのではないか、という問いです。梅岩はまず、書を読むのは言葉を覚えるためでなく自分の身に会得するためだと、論語序説にある程子の語を引いて相手をたしなめます。そして「君子は争わず」とは不義で争わないという意味で、義によって不義を正す争いはあると答えます。殷の湯王が夏の桀を南巣に放ち、周の武王が紂を討った例が証拠です。なお「君子は争ふ所無し」は、実際には『論語』八佾篇の言葉です。

この章句が説くこと

争い読書中庸湯武

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる