都鄙問答 / 卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段
廻リアシク、佛前ノ勉ハ、他人ニ任ヲキ、ソレニテ先祖在如キノ馳走成ベキヤ、分ヲ不越、奢ニナラズバ、出家多キヲ惡ト云ニハアラズ、總ジテ今ノ世ノ法事ヲ爲ヲ見ルニ、名聞ノミニテ、勝手ハ働者ヲ儉約シ、人少クシテ、客ハ多キユヘニ、手廻シ出來ズ、主ハ腹立イカルコト多シ、其怒顏ツキシテ、親祖ニ向ヒ、何ノ法事ニ成ベキヤ、實ノ法事ト云ハ、我心ヲ散亂セズ、安樂ナル顏ツキヲ、親祖ニモ見セマイラセ、出家衆ヘモ、衣ノ損ジ料モ澤山ニアルヤウニ、布施ニ心ヲ付ケ、出入働スル者ニモ、傭ノ外ニ心付ヲナシ、何方モ快喜ヤウニスルコソ、實ノ法事トハ云ベケレ、入用ノ金ハ、心當ヲ極メ置、名聞ノ爲ニ、出家ヲ聚ルユヘニ、自布施ハ減ジ、其外可爲コトニ、不足アルコトナリ、法事ヲスルトテ、人ヲ怒ラセ、我モ腹立、下々ハ、手足摺粉木ニナルホド、ツカヒ苦メルコトコソ哀ケレ、天下ニ大法事ナド行セ玉ヘバ、諸國殺生禁斷、罪人モ御赦免ナサルヽゾカシ、カヽル實ノ御法事ヲ法トシ、身ノ分ヲ僭ズ、約ニシテ、金ノ入用ヲヘラサズ、寄集者、盡快喜ヤウニセバ、親祖ヲ弔、實ノ法事トナルベシ、
新字:廻リアシク、仏前ノ勉ハ、他人ニ任ヲキ、ソレニテ先祖在如キノ馳走成ベキヤ、分ヲ不越、奢ニナラズバ、出家多キヲ悪ト云ニハアラズ、総ジテ今ノ世ノ法事ヲ為ヲ見ルニ、名聞ノミニテ、勝手ハ働者ヲ倹約シ、人少クシテ、客ハ多キユヘニ、手廻シ出来ズ、主ハ腹立イカルコト多シ、其怒顔ツキシテ、親祖ニ向ヒ、何ノ法事ニ成ベキヤ、実ノ法事ト云ハ、我心ヲ散乱セズ、安楽ナル顔ツキヲ、親祖ニモ見セマイラセ、出家衆ヘモ、衣ノ損ジ料モ沢山ニアルヤウニ、布施ニ心ヲ付ケ、出入働スル者ニモ、傭ノ外ニ心付ヲナシ、何方モ快喜ヤウニスルコソ、実ノ法事トハ云ベケレ、入用ノ金ハ、心当ヲ極メ置、名聞ノ為ニ、出家ヲ聚ルユヘニ、自布施ハ減ジ、其外可為コトニ、不足アルコトナリ、法事ヲスルトテ、人ヲ怒ラセ、我モ腹立、下々ハ、手足摺粉木ニナルホド、ツカヒ苦メルコトコソ哀ケレ、天下ニ大法事ナド行セ玉ヘバ、諸国殺生禁断、罪人モ御赦免ナサルヽゾカシ、カヽル実ノ御法事ヲ法トシ、身ノ分ヲ僭ズ、約ニシテ、金ノ入用ヲヘラサズ、寄集者、尽快喜ヤウニセバ、親祖ヲ弔、実ノ法事トナルベシ、
書き下し
廻りあしく、仏前の勉めは、他人に任せおき、それにて先祖在すが如きの馳走成るべきや。分を越えず、奢にならずば、出家多きを悪と云ふにはあらず。総じて今の世の法事を為すを見るに、名聞のみにて、勝手は働く者を倹約し、人少なくして、客は多きゆへに、手廻し出来ず、主は腹立ちいかること多し。其の怒り顔つきして、親祖に向かひ、何の法事に成るべきや。実の法事と云ふは、我が心を散乱せず、安楽なる顔つきを、親祖にも見せまゐらせ、出家衆へも、衣の損じ料も沢山にあるやうに、布施に心を付け、出入り働きする者にも、傭の外に心付けをなし、何方も快く喜ぶやうにするこそ、実の法事とは云ふべけれ。入用の金は、心当てを極め置き、名聞の為に、出家を聚むるゆへに、自ら布施は減じ、其の外為すべきことに、不足あることなり。法事をするとて、人を怒らせ、我も腹立ち、下々は、手足摺粉木になるほど、つかひ苦しむることこそ哀しけれ。天下に大法事など行はせ玉へば、諸国殺生禁断、罪人も御赦免なさるゝぞかし。かゝる実の御法事を法とし、身の分を僭えず、約にして、金の入用をへらさず、寄り集まる者、尽く快く喜ぶやうにせば、親祖を弔ふ、実の法事となるべし。
現代語訳
段取りが悪く、仏前の勤めは他人に任せておいて、それで先祖がそこにいるかのようなもてなしになるでしょうか。分を越えず、ぜいたくにならないのなら、僧が多いのを悪いと言うのではありません。およそ今の世の法事を見ると、世間体ばかりで、台所の働き手は倹約して人が少なく、客は多いので手が回らず、主人は腹を立てて怒ることが多い。その怒った顔つきで先祖に向かって、何の法事になるでしょう。本当の法事とは、自分の心を乱さず、穏やかな顔つきを先祖にもお見せし、僧たちにも衣の傷み代が十分にあるよう布施に心を配り、出入りして働く者にも手間賃のほかに心付けをして、誰もが快く喜ぶようにすることです。必要な費用はあらかじめ見積もっておくべきなのに、世間体のために僧を大勢集めるから、おのずと一人あたりの布施は減り、そのほかすべきことにも不足が出るのです。法事をするといって人を怒らせ、自分も腹を立て、下働きの者はすりこぎのように手足がすり減るほどこき使い苦しめるのは、哀れなことです。天下で大きな法事を行われるときは、諸国で殺生が禁じられ、罪人も赦されるではありませんか。こうした本当の御法事を手本とし、身の分を越えず、質素にしながらも必要な費用は削らず、集まる人がみな快く喜ぶようにすれば、先祖を弔う本当の法事となるでしょう。
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、外の世話多く、それまでは手が届き申さず候。答ふ、座敷の膳や、引菓子などは、自らせられ候や。曰く、それは丁寧なる者ゆへ、重客の分は、是非とも自らせられ候。答ふ、汝は最前に、主機嫌悪しき所へ召され往くは、否と云ふにあらずや。我が身を推して万事を知るべし。法事の上客は親祖なり。然るに親祖の所へは顔出しもせず、配膳も他人に任せおき、相伴人を馳走する礼法はあるまじ。左様に待たざる所へ、料理の好味を喜び、先祖は来らるべきや。若し来れることありとも、争でか快からん。快からざることをなして、孝行の法事と云はるべきや。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段答ふ、然れば先の親方は、呵りまはすと、我が腹立つるとを、法事にせられ候や。曰く、左にはあらず、出家さへ、五六十人も招かれ候へば、勝手には、人足らぬ故に気をせき、自ら怒られ候。然れども、結構なる法事は致され候。答ふ、法事に、仏前の供物は、自ら備へられ候や。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、料理は麁相なりとも、亭主機嫌の好きが勝るべし。答ふ、先の親方は、大業なる法事など致されしとあり、実に然るや。曰く、信心者ゆへ、仏のことは大業に致され候。答ふ、法事の時、何も機嫌能く、喜んで勉められ候や。曰く、大勢の客を疎末にせぬ心ゆへに、下々の廻り悪しければ、勝手の者は呵りまはされ候。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、親類一家祝儀の音物は、取り遣りともに、三分一に減じ、七日の法事は三日に減じ、一日の斎は三日に増し、斎非時も、五十人の僧を二十人に減じ、一石の施行は三石に増す。此れ等はいかん。答ふ、我が分を能く知りて、天を恐るゝ志し、有りがたきことなり。音物を減じ、法事の日数を減じ、僧を聚むることを減ずるは、分限を知らるゝが故なり。法事に、斎し敬むは礼なり。施行米を増し人を救ふは、仁の施しなり。凡て増減を知るは智なり。実に智仁の心を能く用ひたるありさま、左も有るべきことかな。孔子も、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ、喪は其の易めんよりは寧ろ戚めと宣ふ。扨て五十人の僧を、二十人に減ずること、定めて疑ひあるべし。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、先祖は最早仏なれば、其の構ひはなきにあらずや。答ふ、汝は最前に、名も実物と云ふ。仏前に法名あれば、是れ直に親祖なり。神仏も名を祭り、親祖も名を祭る。名は直に体なり、体即ち心なり。こゝを以て孔子も、神を祭るには在すが如くす、吾祭に与らざれば祭らざるが如しと。因りて供物等も自ら進め、人をして代らしむれば、祭らざるが如しと宣ふ。祭と云ふは、今此の国の法事のことなり。孔子大聖の徳御座して、親祖の祭には沐浴し、心を斎へ、身を清め玉ふ。親祖を祭るは、我に誠あれば、霊来りて供物を受け玉ふ。誠なければ霊来らず。祭ると云ふとも、何の益あらん。因りて今日法事を行ふとも、只孝行を主とすべし。然るに汝が先の親方は、多く出家を召し集め、客あしらひに隙をとられ、且つ台所に人少なければ、
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、法事は少しにても、増すを善事と云ふべし。減らすを善と云ふは、如何なることぞや。答ふ、似ざる事ながら、汝心得やすきやうに、事を設けて語るべし。汝も生れし時は、赤子と云ふ。次いで名を付け、次郎とか太郎とか云ふべし。成長して、汝、今の名を付けり。又年寄らば、法体して法名を付くべし。其の時々の名を召べば答ふるなり。其の名は、実の者か仮の者か。