都鄙問答 / 卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段
曰、法事ハ少ニテモ、增ヲ善事ト云ベシ、減スヲ善ト云ハ、如何ナルコトゾヤ、答、不似事ナガラ、汝心得ヤスキヤウニ、事ヲ設テ語ルベシ、汝モ生シ時ハ、赤子ト云、次デ名ヲ付ケ、次郞トカ太郞トカ云ベシ、成長シテ、汝、今ノ名ヲ付リ、又年寄バ、法體シテ法名ヲ付ベシ、其時々ノ名ヲ召バ答ルナリ、其名ハ、實ノ者カ假ノ者カ、
新字:曰、法事ハ少ニテモ、增ヲ善事ト云ベシ、減スヲ善ト云ハ、如何ナルコトゾヤ、答、不似事ナガラ、汝心得ヤスキヤウニ、事ヲ設テ語ルベシ、汝モ生シ時ハ、赤子ト云、次デ名ヲ付ケ、次郎トカ太郎トカ云ベシ、成長シテ、汝、今ノ名ヲ付リ、又年寄バ、法体シテ法名ヲ付ベシ、其時々ノ名ヲ召バ答ルナリ、其名ハ、実ノ者カ仮ノ者カ、
書き下し
曰く、法事は少しにても、増すを善事と云ふべし。減らすを善と云ふは、如何なることぞや。答ふ、似ざる事ながら、汝心得やすきやうに、事を設けて語るべし。汝も生れし時は、赤子と云ふ。次いで名を付け、次郎とか太郎とか云ふべし。成長して、汝、今の名を付けり。又年寄らば、法体して法名を付くべし。其の時々の名を召べば答ふるなり。其の名は、実の者か仮の者か。
現代語訳
問う人が言いました。「法事は少しでも増やすのを善いことと言うはずです。減らすのを善いと言うのはどういうことですか。」梅岩は答えました。「似つかわしくない話ですが、あなたが分かりやすいように、たとえを設けて話しましょう。あなたも生まれた時は赤子と呼ばれました。次に名を付けて、次郎とか太郎とか呼ばれたでしょう。成長して今の名を付け、また年を取れば頭を丸めて法名を付けるでしょう。その時々の名で呼べば返事をします。その名は、本物ですか、仮のものですか。」
解説
法事は多いほどよいと考える相手に、梅岩はいきなり結論を言わず、「名」についての問答を始めます。赤子、太郎・次郎、今の名、法名と、名はその時々に付け替わる仮のものにすぎないのに、呼ばれれば人は答えます。ここから、法名で祀られる先祖が「名」を通じてその場にいるという話へ進み、法事の本当の中身を問う伏線になっています。相手が自分で答えにたどり着くよう問いを重ねる、梅岩の講釈の手法がよく分かる箇所です。
この章句が説くこと
名法事問答実と仮先祖
関連する章句
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、爪を切り身を切るとても、名はあるまじ。答ふ、爪を切り身を切るとても、名はなし。形は土なり、名は則ち汝なり。神と云ふ名は直に神なり。名の外に神仏はなし。因つて先祖親祖も、法名を付けて召べば、直に親祖なり。扨て又汝、祭や節に召されて往くに、先の夫婦、機嫌の好きが善からんや、機嫌は悪しくとも、料理のよきが善からんや。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段答ふ、然れば先の親方は、呵りまはすと、我が腹立つるとを、法事にせられ候や。曰く、左にはあらず、出家さへ、五六十人も招かれ候へば、勝手には、人足らぬ故に気をせき、自ら怒られ候。然れども、結構なる法事は致され候。答ふ、法事に、仏前の供物は、自ら備へられ候や。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、外の世話多く、それまでは手が届き申さず候。答ふ、座敷の膳や、引菓子などは、自らせられ候や。曰く、それは丁寧なる者ゆへ、重客の分は、是非とも自らせられ候。答ふ、汝は最前に、主機嫌悪しき所へ召され往くは、否と云ふにあらずや。我が身を推して万事を知るべし。法事の上客は親祖なり。然るに親祖の所へは顔出しもせず、配膳も他人に任せおき、相伴人を馳走する礼法はあるまじ。左様に待たざる所へ、料理の好味を喜び、先祖は来らるべきや。若し来れることありとも、争でか快からん。快からざることをなして、孝行の法事と云はるべきや。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段答ふ、盗人と云ひ善人と云ふ、これ仮の者にて、外より付けたる名なり。其れに何とて怒り喜ぶことぞや。曰く、仮の者とは思ひしが、名も我に添ひたる者なれば、これも実物に同じ。盗人と云はれては、思はずして怒るなり。答ふ、今汝が爪を切り舎つるに、爪の中に爪と云ふ名ありや。又汝が身を切り裁ちて見ば、汝が名あらんや。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段曰く、名は付けて生るゝものには非ず、先づ仮のものなり。答ふ、汝を盗人と云はゞ如何。この故に怒るなり。曰く、盗人と云はれては、身分立たず、この故に怒るなり。答ふ、善人と云はゞ如何。曰く、我に善事はなけれども、誉めらるゝはあしからず。
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『都鄙問答』卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段廻りあしく、仏前の勉めは、他人に任せおき、それにて先祖在すが如きの馳走成るべきや。分を越えず、奢にならずば、出家多きを悪と云ふにはあらず。総じて今の世の法事を為すを見るに、名聞のみにて、勝手は働く者を倹約し、人少なくして、客は多きゆへに、手廻し出来ず、主は腹立ちいかること多し。其の怒り顔つきして、親祖に向かひ、何の法事に成るべきや。実の法事と云ふは、我が心を散乱せず、安楽なる顔つきを、親祖にも見せまゐらせ、出家衆へも、衣の損じ料も沢山にあるやうに、布施に心を付け、出入り働きする者にも、傭の外に心付けをなし、何方も快く喜ぶやうにするこそ、実の法事とは云ふべけれ。入用の金は、心当てを極め置き、名聞の為に、出家を聚むるゆへに、自ら布施は減じ、其の外為すべきことに、不足あることなり。法事をするとて、人を怒らせ、我も腹立ち、下々は、手足摺粉木になるほど、つかひ苦しむることこそ哀しけれ。天下に大法事など行はせ玉へば、諸国殺生禁断、罪人も御赦免なさるゝぞかし。かゝる実の御法事を法とし、身の分を僭えず、約にして、金の入用をへらさず、寄り集まる者、尽く快く喜ぶやうにせば、親祖を弔ふ、実の法事となるべし。