師導古典を学びたいすべての人に

都鄙問答 / 卷之四・或人主人行狀ノ是非ヲ問ノ段

曰、先祖ハ最早佛ナレバ、其構ハナキニアラズヤ、答、汝ハ最前ニ、名モ實物ト云、佛前ニ法名アレバ、是直ニ親祖ナリ、神佛モ名ヲ祭リ、親祖モ名ヲ祭ル、名ハ直ニ體ナリ、體卽心ナリ、コヽヲ以テ孔子モ、祭神如在、吾不與祭如不祭ト、因テ供物等モ自進メ、人ヲシテ代ラシムレバ、祭ザルガ如シトノ玉フ、祭ト云ハ、今此國ノ法事ノコトナリ、孔子大聖ノ德御座テ、親祖ノ祭ニハ沐浴シ、心ヲ齊、身ヲ淸メ玉フ、親祖ヲ祭ハ、我誠アレバ、靈來テ供物ヲ受玉フ、誠ナケレバ靈來ラズ、祭ト云フトモ、何ノ益アラン、因テ今日法事ヲ行フトモ、只孝行ヲ主トスベシ、然ルニ汝ガ先ノ親方ハ、多ク出家ヲ召集、客アシライニ隙ヲトラレ、且臺所ニ人少ケレバ、

新字:曰、先祖ハ最早仏ナレバ、其構ハナキニアラズヤ、答、汝ハ最前ニ、名モ実物ト云、仏前ニ法名アレバ、是直ニ親祖ナリ、神仏モ名ヲ祭リ、親祖モ名ヲ祭ル、名ハ直ニ体ナリ、体即心ナリ、コヽヲ以テ孔子モ、祭神如在、吾不与祭如不祭ト、因テ供物等モ自進メ、人ヲシテ代ラシムレバ、祭ザルガ如シトノ玉フ、祭ト云ハ、今此国ノ法事ノコトナリ、孔子大聖ノ徳御座テ、親祖ノ祭ニハ沐浴シ、心ヲ斉、身ヲ清メ玉フ、親祖ヲ祭ハ、我誠アレバ、霊来テ供物ヲ受玉フ、誠ナケレバ霊来ラズ、祭ト云フトモ、何ノ益アラン、因テ今日法事ヲ行フトモ、只孝行ヲ主トスベシ、然ルニ汝ガ先ノ親方ハ、多ク出家ヲ召集、客アシライニ隙ヲトラレ、且台所ニ人少ケレバ、

書き下し

曰く、先祖は最早仏なれば、其の構ひはなきにあらずや。答ふ、汝は最前に、名も実物と云ふ。仏前に法名あれば、是れ直に親祖なり。神仏も名を祭り、親祖も名を祭る。名は直に体なり、体即ち心なり。こゝを以て孔子も、神を祭るには在すが如くす、吾祭に与らざれば祭らざるが如しと。因りて供物等も自ら進め、人をして代らしむれば、祭らざるが如しと宣ふ。祭と云ふは、今此の国の法事のことなり。孔子大聖の徳御座して、親祖の祭には沐浴し、心を斎へ、身を清め玉ふ。親祖を祭るは、我に誠あれば、霊来りて供物を受け玉ふ。誠なければ霊来らず。祭ると云ふとも、何の益あらん。因りて今日法事を行ふとも、只孝行を主とすべし。然るに汝が先の親方は、多く出家を召し集め、客あしらひに隙をとられ、且つ台所に人少なければ、

現代語訳

問う人が言いました。「先祖はもう仏になったのですから、そんな気づかいはいらないのではありませんか。」梅岩は答えました。「あなたは先ほど、名も本物と同じだと言いました。仏前に法名があれば、それがそのまま先祖です。神仏も名を祭り、先祖も名を祭ります。名はそのまま体であり、体はそのまま心です。だから孔子も『神を祭るときは、神がそこにいるかのようにする。自分が祭りに加わらなければ、祭らなかったのと同じだ』と言われました。だから供え物なども自分で供え、人に代わらせたのでは祭らなかったのと同じだ、とおっしゃるのです。祭りというのは、今のこの国でいう法事のことです。孔子は大聖の徳を持ちながら、先祖の祭りには沐浴し、心を斎め身を清められました。先祖を祭るとき、こちらに誠があれば霊が来て供え物を受けられます。誠がなければ霊は来ません。それでは祭ったといっても何の益があるでしょう。だから今日法事を行うにも、ただ孝行を主としなさい。ところがあなたの先代の主人は、多くの僧を呼び集め、客のあしらいに手を取られ、しかも台所に人が少なかったので、

解説

「先祖はもう仏なのだから気づかいは無用では」という反論に、梅岩は先の「名は実物」の問答を持ち出して答えます。仏前の法名はそのまま先祖であり、名は体、体は心だというのです。そのうえで『論語』八佾篇の「祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす。子曰く、吾祭に与らざれば祭らざるが如し」を引き、供え物を人任せにする祭りは祭らないのと同じだと言います。形式の大きさではなく誠の有無が法事の中身だ、という結論に近づいていきます。

この章句が説くこと

孝行先祖論語

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる