都鄙問答 / 卷之四・醫ノ志ヲ問ノ段
曰、然バ博學ノ名醫ト云ヘルハ、醫學バカリノコトニテ候ヤ、他ノ文學ナク、挨拶等常體ノコトバカリ云ハヾ、輕々鋪文盲ニ見ユベシ、文盲ニ見ヘテハ、他ノ信仰モ薄ク、信仰ナキ所ニテハ、療治ナドモ成難カルベシ、身ノ飾ヲナス爲ニハ、詩作文章ヲモ兼テ、博學ナルガ宜キニアラズヤ、
新字:曰、然バ博学ノ名医ト云ヘルハ、医学バカリノコトニテ候ヤ、他ノ文学ナク、挨拶等常体ノコトバカリ云ハヾ、軽々鋪文盲ニ見ユベシ、文盲ニ見ヘテハ、他ノ信仰モ薄ク、信仰ナキ所ニテハ、療治ナドモ成難カルベシ、身ノ飾ヲナス為ニハ、詩作文章ヲモ兼テ、博学ナルガ宜キニアラズヤ、
書き下し
曰く、然らば博学の名医と云へるは、医学ばかりのことにて候や。他の文学なく、挨拶等常体のことばかり云はば、軽々しく文盲に見ゆべし。文盲に見へては、他の信仰も薄く、信仰なき所にては、療治なども成り難かるべし。身の飾りをなす為には、詩作文章をも兼ねて、博学なるが宜しきにあらずや。
現代語訳
問う人が言います。「それでは、博学の名医というのは医学だけのことなのですか。ほかの学問がなく、挨拶なども普通のことばかり言っていれば、軽々しく無学に見えるでしょう。無学に見えては人の信頼も薄くなり、信頼のないところでは治療もしにくいはずです。身を飾るためには、詩や文章もあわせて身につけ、博学であるほうがよいのではありませんか」。
解説
問う人の反論は現実的です。医術の腕だけでは患者に軽く見られる、教養の飾りがあってこそ信頼され、信頼があってこそ治療もできる、というのです。見た目の権威が仕事の成果を左右するという感覚は、今も肩書きや資格、話しぶりで専門家を判断しがちな私たちと変わりません。梅岩はこの問いを退けず、次の段で「本末」の順序として答えます。飾りを否定するのではなく、どちらが先かを問い直すのです。
この章句が説くこと
信用博学文学飾り医
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『都鄙問答』卷之四・醫ノ志ヲ問ノ段答、博学は我も好む所なり、捨つるにあらず。然れども、医学熟して後のことなり。本末を正す時は、医学は本と知るべし。有子曰く、本立ちて道生ずと。本末の違へるは、君子の道にあらず。扠汝は、世俗の聞きなれぬことを云ふを、博学と思はれ候や。それは麁相なる了簡なり。良医は聞きなれぬことを云ふものに非ず。医書に、望聞問切と云ふことあり。先づ病人に望み、容体を見るを望と云ふ。様子を聞きて、病を知るを聞と云ふ。不審を問ひて察するを問と云ふ。脈を診て病を定むるを切と云ふ。然れば病人に望み、其の容体を観て後に、疾のことを言はせて聞き、又委細のことは、看病の者に問ひ、且つ脈を診て、我が意に合へるか合はざるかと得心して、薬を用ゆべきことなり。それに人の聞きなれぬことを云ひ、
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『都鄙問答』卷之四・醫ノ志ヲ問ノ段且つ病治せざるは、是非なしとも云ふべし。子曰く、人にして恒無くんば、以て巫医を作すべからず、善いかなと。医は、人の生死を寄せたのむものなり。人の命を惜しむを以て、我が心とせざれば、過ちの不仁多かるべし。我が命を惜しむ心を以て、病人を愛せば、過ちすくなからん。斯くのごとくせば、実に仁愛の医者と成るべし。其の仁愛を失はざれば、これ医の恒と云ふべきか。これを味はひ見ば、治しがたき病人あらば、何ほども医書に眼をさらし工夫すべし。博学の為にはあらねども、病人を実に愛憐する所より、終に博学の名医と成るべし。博学と云ふは、詩作文章を事とするには非ず。此れ医の志すべき所の大略を云ふ。
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『都鄙問答』卷之四・醫ノ志ヲ問ノ段或人問ひて曰く、吾が忰の内、一人は医者に致したく候。渡世の為には、如何なるものにて有るべきや。答、吾医の道は学ばざれば、委しからずといへども、暫く志す所を以て告げん。先づ第一、医学に心を尽すべきことなり。医書の意味得心なくして、人の命をあづかることは恐るべし。いかんとなれば、我一命の惜しきことを顧み、他人に推し及ぼす。かかる時は病人を預りて、一時も心ゆるやかなるべからず。譬へば我が身に頭痛し腹痛む時は、少しの間にても、堪忍なるまじ。其の堪忍ならぬことを知らば、人の病を見ては、我が病の如く思ひ、心を尽し療治せば、一夜にても、ゆるやかに寐ることはなるまじ。人の命を惜しみ、薬を施し、施すを以て心とし、病気快然を以て楽とし、薬礼の事を思はず、
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『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段或ひと問ひて曰く、或所に幼年より学問し、四書五経は云ふに及ばず、何にても書物暗ずる程の徳有る人あり。然れども心得がたきこと多し。一事を挙げて云はゞ、金銀借用等に、不埒なること多し。夫ともに、手前にも倹約を守らるゝ上にて、是非なく不足あらば、他の了簡も有るべけれど、手前は取りじめなく、他人に不埒をなし、且つ親への事も、何とやら悪鋪ところ有りて、親の心に合はざれば、先づは不孝と云ふべきか。扠身の行作を見れば、物知り顔に我をたかぶり、弁舌は鮮なれども、聞きなれぬ挨拶にて、兎角耳に入りにくし。なにとやら寄りそひがたき風俗有りて、十人が九人までは嫌ふなり。是を以て見れば、親の気に入らぬも、尤なりと云ふ者多し。博学の徳有りて、加様なる身持あるは、如何なることぞ。
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『都鄙問答』卷之四・或人天地開闢ノ說ヲ譏ノ段一度我に疑ひ晴るることありて、後に味はふべき所なり。然るに今の世の人、文字に泥み、色々に作為するゆへに、昏々然と闇く、古人の心を知らざるゆへに、和漢ともに、文学他に勝れば、此れを徳と思ひ、我を伐る者多し。文学に伐る者を喩へて云はば、衆人の財宝をたくらべて、彼は劣れり、我は勝れりと伐るに同じ。学者に於ては、恥づべきことの第一なり。如何となれば、財宝も、かせぎ設けて吝くすれば溜る者なり。文字も其の如く、年を重ねて油断なく学べば、他より勝れる者なり。其の中に記憶能くして多く記すは、衆人の中に、仕合せ能く富めるが如し。又学者も、文字を読むのみにては、聖人の意味、神書の奥深き所知らるべきに非ず。然るに文字を滞りなく読めば、此の外も有るまじと思ふべきが、
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段曰く、汝の云へる如くなれば、文学は末なること明らかなれども、彼の儒者に、一言にて、身の脩まるべきことありやと問はば、汝が如き四書の素読もせざる者に、聖人の道、何を云ひ聞かせんや。俗に聾に囁くと云ふ如し、耳に入ることなかるべしと云はれたり。又世間の人も斯く思へり。然れば汝の云へる所は誤りなり。文学なくては、知らるべきことには非ず。何程に云はれても、疑ひなきこと能はず。又汝は何方にて学び、世間の学者に替はりたる教へを弘むるぞや。