都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
莫不獲益矣ト、コレニ因テ見レバ、一切衆生ニ、心ノ濁亂ルヽ者多ク、正念ノ者ハ少キユヘニ、衆生ノ心ヲ、一筋ニ向ハシメン爲ニ、西方ヲ極樂ト指テ敎フトノ玉フコト、明白ナリ、然レバ、極樂ヲ西方ト敎玉フハ、愚痴ノ者ニ說玉フ法ニテ、上知ノ敎ハ、十方佛土ナルコト明ナリ、師範ト成ル者ハ、別シテ味フベキ所ナリ、愚痴ナレバ、先我往ベキ道ヲ知ラズ、我往生ヲ知ラズシテ、他ヲ導ベキ所ニアラズ、扠如來ノ說法ト云ハ、直ニ南無阿彌陀佛ト知ルベシ、如何トナレバ、口ニ唱ル南無阿彌陀佛ガ耳ニ入リ、一遍ノ念佛ニテハ、一念ノ惡ヲ消シ、二遍ノ念佛ニテハ、二念ノ惡ヲ消ス、惡念死テ善心生ルナレバ、コレ卽往生ナリ、往生ニ三義ヲ立ツル中ニ、
新字:莫不獲益矣ト、コレニ因テ見レバ、一切衆生ニ、心ノ濁乱ルヽ者多ク、正念ノ者ハ少キユヘニ、衆生ノ心ヲ、一筋ニ向ハシメン為ニ、西方ヲ極楽ト指テ教フトノ玉フコト、明白ナリ、然レバ、極楽ヲ西方ト教玉フハ、愚痴ノ者ニ説玉フ法ニテ、上知ノ教ハ、十方仏土ナルコト明ナリ、師範ト成ル者ハ、別シテ味フベキ所ナリ、愚痴ナレバ、先我往ベキ道ヲ知ラズ、我往生ヲ知ラズシテ、他ヲ導ベキ所ニアラズ、扠如来ノ説法ト云ハ、直ニ南無阿弥陀仏ト知ルベシ、如何トナレバ、口ニ唱ル南無阿弥陀仏ガ耳ニ入リ、一遍ノ念仏ニテハ、一念ノ悪ヲ消シ、二遍ノ念仏ニテハ、二念ノ悪ヲ消ス、悪念死テ善心生ルナレバ、コレ即往生ナリ、往生ニ三義ヲ立ツル中ニ、
書き下し
益を獲ざること莫しと。これに因りて見れば、一切衆生に、心の濁り乱るゝ者多く、正念の者は少きゆへに、衆生の心を、一筋に向はしめん為に、西方を極楽と指して教ふとの玉ふこと、明白なり。然れば、極楽を西方と教へ玉ふは、愚痴の者に説き玉ふ法にて、上知の教は、十方仏土なること明なり。師範と成る者は、別して味はふべき所なり。愚痴なれば、先づ我往くべき道を知らず。我往生を知らずして、他を導くべき所にあらず。扠如来の説法と云ふは、直に南無阿弥陀仏と知るべし。如何となれば、口に唱ふる南無阿弥陀仏が耳に入り、一遍の念仏にては、一念の悪を消し、二遍の念仏にては、二念の悪を消す。悪念死して善心生るなれば、これ即ち往生なり。往生に三義を立つる中に、
現代語訳
益を得ないことはない』と答えています。これを見れば、衆生には心の乱れた者が多く、正しく念じる者が少ないので、心を一筋に向けさせるために西方を極楽と指して教えたのだと、はっきり言っておられるのです。ですから極楽を西方と教えたのは愚かな者に説いた法であり、すぐれた知恵の者への教えは、十方がみな仏土だということは明らかです。師となる者は、とりわけよく味わうべきところです。愚かであれば、まず自分の行くべき道がわかりません。自分の往生がわからないのに、他人を導けるはずがありません。さて、如来の説法とは、そのまま南無阿弥陀仏だと知るべきです。なぜなら、口に唱える南無阿弥陀仏が耳に入り、一遍の念仏で一念の悪を消し、二遍の念仏で二念の悪を消す。悪い念が死んで善い心が生まれるのですから、これがすなわち往生です。往生には三つの意味が立てられていますが、
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段曰く、然らば汝は、段々伝へ来る大事を、みな偽りと云ひ、非法するは如何なることぞ。答ふ、何ぞ理なく他を非法すべき。念仏宗に云ふは、西方極楽へ往生し、彼の国に至りて、如来の説法を聞きて、悟りを開き、成仏するとの教なり。汝如き人の導師と成る者は、此所を能々工夫して、開くべき所なり。仏氏にて云ふときは、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、本来東西無し、何処にか南北有らんと。此の如くなれば、彼の国と云ふは、唯心の浄土と云ふことに決定せり。浄土と云ふも、我心のことなり。普広菩薩仏に白して言さく、世尊、十方仏土、皆厳浄たり。何の故に諸経の中に、偏へに西方阿弥陀仏国を歎じて往生を勧むるやと。仏普広菩薩に告げたまはく、一切衆生濁乱の者多く、正念の者少なし。衆生をして心を専らにして在る所有らしめんと欲す。是の故に彼の国を讃歎して別異と為すのみ。若し能く願に依りて脩行すれば、
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段一を挙げて云はゞ、往は猶此のごとし、此に生るなり。自心より生るを以て、故に往かずして往くを名づけて往生となすなり。念仏の行者も、初めには火宅を厭ひ、離れんことを思うて、極楽往生を願ひ、弥陀を念ずるなり。夫より年月を経て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふれば、念仏にくせつきて、終には余念他念なく、後には南無阿弥陀仏計りになれば、往かずして、南無阿弥陀仏に生るゝなり。南無阿弥陀仏になれば、我と云ふものあるべきや。我なければ虚空の如し。虚空に南無阿弥陀仏の声有りて唱ふれば、此れ即ち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏直に御名を唱へ玉ふは、説法にあらずや。此説法の功徳に依りて、弥陀を念ずる行者も、念ぜらるゝ方の仏も、双方ともに一体と成り、
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終りて、無心無念の不可思議と成る。是を名づけて、自然悟道とも云ひ、能所不二機法一体とも云ふにあらずや。大原問答に曰く、有相の修因より、直ちに無相の楽果に入る。往生の見を抑へて、無生の理を体達せしむと。これ等の所は、如何得心せられ候や。阿弥陀経に曰く、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名づけて極楽と曰ふ。其の土に仏有り、阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふと。現在は目前のことなり。唯心の浄土、己心の弥陀なれば、娑婆即寂光なり。然れば現在の説法と云ふは、草木国土悉皆成仏にて、森羅万像悉く一仏なれば、柳は緑、花は紅と分れて、己々が法を説くなり。一心不乱の脩行を以て此に至り、九品の浄土を目前に拝むべし。これ即ち諸法実相の所なり。光明遍照十方世界、
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『六祖壇経』疑問品第三師言く、『使君善く聽け、惠能與に説かん。世尊舍衛城中に在りて、西方引化を説く。經文分明にして、此を去ること遠からず。若し相を論じて里數を説かば十萬八千有り。即ち身中の十惡八邪、便ち是れ遠しと説く。遠しと説くは、其の下根の為なり。近しと説くは、其の上智の為なり。人に兩種有るも、法に兩般無し。迷悟殊有り、見に遲疾有り。迷人は佛を念じて、彼に生ぜんことを求む。悟人は自ら其の心を淨くす。所以に佛言はく、「其の心の淨きに隨ひて、即ち佛土淨し」と。使君は東方の人なるも、但だ心淨ければ即ち罪無し。西方の人と雖も、心淨からざれば亦た愆有り。東方の人罪を造れば、佛を念じて西方に生ぜんことを求む。西方の人罪を造らば、佛を念じて何れの國に生ぜんことを求めん。凡愚は自性を了せず、身中の淨土を識らず、東を願ひ西を願ふ。悟人は在る處一般なり。所以に佛言はく、「住する所に隨ひて、恆に安樂なり」と。使君の心地、但だ不善無くば、西方此を去ること遙かならず。若し不善の心を懷かば、佛を念じて往生すること到り難し』と。
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段念仏衆生摂取不舎。他宗は脩行の功を積み、観念座禅等を以て、此理を悟るなり。然るに難行をせずして、悟り開かるゝゆへに、念仏宗旨は、諸宗に勝れりと、汝も口真似するにあらずや。釈尊の法性を悟り、一仏成道し玉ふと、念仏にて、法性に至り、自然悟道したると、二つの替りありや。法性に二つ無くば、南無阿弥陀仏にて、浄土宗門は事足るべし。然れども、伝授なくては足らずと云はゞ、大師の起請は、偽りと云ひて破り舎てんや。如何。
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『驢鞍橋』卷上亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。