都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段
天台宗ハ止觀ト云、眞言宗ハ阿字本不生ト云、禪宗ハ本來面目ト云、念佛宗ニハ入我我入機法一體ナドト云、日蓮宗ニハ妙法ト云、加樣ニ名目ニハ替リアレドモ、脩行熟シテ至ル所ハ一ナリ、一事ヲ擧テイハヾ、壽量無邊經曰、佛告文殊言、無心無念ノ本佛、以不思議爲體、無本去來、無三身性、無十界性ト云、然レドモ有ニ對スル無ニハ非ズ、是ヲ以テ法性トハイフベシ、然ラバ其法性ヲ覺ルヨリ外ハナカルベシ、悟レバ生死ノ迷ヒヲ離ル、生死ノ迷ヒヲ離レザレバ、宗旨ノ法燈ト成コト不能、扠儒ニハ、性理ノ至極ノ所ニ至テハ、上天ノ載ハ、無聲無臭ト說玉フ、卽易ニ所謂、窮理盡性以至於命トノ玉フ所ニテ、聖人ノ心ナリ、
新字:天台宗ハ止観ト云、真言宗ハ阿字本不生ト云、禅宗ハ本来面目ト云、念仏宗ニハ入我我入機法一体ナドト云、日蓮宗ニハ妙法ト云、加様ニ名目ニハ替リアレドモ、脩行熟シテ至ル所ハ一ナリ、一事ヲ挙テイハヾ、寿量無辺経曰、仏告文殊言、無心無念ノ本仏、以不思議為体、無本去来、無三身性、無十界性ト云、然レドモ有ニ対スル無ニハ非ズ、是ヲ以テ法性トハイフベシ、然ラバ其法性ヲ覚ルヨリ外ハナカルベシ、悟レバ生死ノ迷ヒヲ離ル、生死ノ迷ヒヲ離レザレバ、宗旨ノ法灯ト成コト不能、扠儒ニハ、性理ノ至極ノ所ニ至テハ、上天ノ載ハ、無声無臭ト説玉フ、即易ニ所謂、窮理尽性以至於命トノ玉フ所ニテ、聖人ノ心ナリ、
書き下し
天台宗は止観と云ひ、真言宗は阿字本不生と云ひ、禅宗は本来面目と云ひ、念仏宗には入我我入機法一体などと云ひ、日蓮宗には妙法と云ふ。かやうに名目には替りあれども、修行熟して至る所は一なり。一事を挙げていはば、寿量無辺経に曰く、仏文殊に告げて言はく、無心無念の本仏は、不思議を以て体と為す。本去来無く、三身の性無く、十界の性無しと云ふ。然れども有に対する無には非ず。是を以て法性とはいふべし。然らば其の法性を覚るより外はなかるべし。悟れば生死の迷ひを離る。生死の迷ひを離れざれば、宗旨の法灯と成ること能はず。扨儒には、性理の至極の所に至りては、上天の載は、声も無く臭ひも無しと説き給ふ。即ち易に所謂、理を窮め性を尽くして以て命に至るとのたまふ所にて、聖人の心なり。
現代語訳
天台宗は止観と言い、真言宗は阿字本不生と言い、禅宗は本来の面目と言い、念仏宗は入我我入や機法一体などと言い、日蓮宗は妙法と言います。このように名目には違いがあっても、修行が熟して至るところは一つです。一例を挙げれば、寿量無辺経に「仏が文殊に告げて言われた。無心無念の本仏は不思議を体とし、もとより去来なく、三身の性もなく、十界の性もない」とあります。けれどもそれは有に対する無ではありません。これを法性と言うべきです。そうであれば、その法性を覚ること以外にはない。悟れば生死の迷いを離れます。生死の迷いを離れなければ、宗旨の法灯を継ぐことはできません。さて儒では、本性の理の極みに至っては、「天のはたらきは声もなく匂いもない」と説かれます。易にいう「理を窮め性を尽くして命に至る」ところで、これが聖人の心です。
解説

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