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都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段

見聞言ザレバ咎ナシ、咎ナキ者ハ、赤子ニ同ジ、赤子ハ敎ヘザレドモ、無知ノ聖人ナリ、抑聖人ハ、見ルニ心ナク、聞ニ心ナク、言ニ心ナキユヘニ、不失赤子之心者ハ聖人ナリト、孟子ノ玉ヘリ、是又三重病人ニ似タリ、聖人ノ敎ハ、咎アル者ハコレヲ正ス、咎ナキ者ヲ何ゾ正ン、扠汝ニ問ン、所々ニ庚申ト云ヲ見レバ、見ザル聞ザル言ザルノ猿ナリ、コレヲ三疋合スレバ、三重病人ナルヲ、コレハ佛菩薩トシテ人ニ拜ス、然レバ三重病人モ、佛菩薩ニ近キモノヲ傳授ナクテハ、救ヒガタシト云ハ、如何ナルコトゾヤ、且圓光大師ハ、念佛ノ外ニ、奧深コトヲ存ゼバ、二尊ノ愍ニハヅレ、本願ニモレ候ベシト、一枚起請ニアリトカヤ、一枚起請ニテハ、奧深キコトハナシトイヒ、今汝ガ云ヘル所ニテハ、傳ニテ大事ヲ傳ト云、コレ大師ノ敎ニタガフベシ、儒ニハ左樣ノ箱傳授ハイラズ、

新字:見聞言ザレバ咎ナシ、咎ナキ者ハ、赤子ニ同ジ、赤子ハ教ヘザレドモ、無知ノ聖人ナリ、抑聖人ハ、見ルニ心ナク、聞ニ心ナク、言ニ心ナキユヘニ、不失赤子之心者ハ聖人ナリト、孟子ノ玉ヘリ、是又三重病人ニ似タリ、聖人ノ教ハ、咎アル者ハコレヲ正ス、咎ナキ者ヲ何ゾ正ン、扠汝ニ問ン、所々ニ庚申ト云ヲ見レバ、見ザル聞ザル言ザルノ猿ナリ、コレヲ三疋合スレバ、三重病人ナルヲ、コレハ仏菩薩トシテ人ニ拝ス、然レバ三重病人モ、仏菩薩ニ近キモノヲ伝授ナクテハ、救ヒガタシト云ハ、如何ナルコトゾヤ、且円光大師ハ、念仏ノ外ニ、奥深コトヲ存ゼバ、二尊ノ愍ニハヅレ、本願ニモレ候ベシト、一枚起請ニアリトカヤ、一枚起請ニテハ、奥深キコトハナシトイヒ、今汝ガ云ヘル所ニテハ、伝ニテ大事ヲ伝ト云、コレ大師ノ教ニタガフベシ、儒ニハ左様ノ箱伝授ハイラズ、

書き下し

見聞言はざれば咎なし。咎なき者は、赤子に同じ。赤子は教へざれども、無知の聖人なり。抑聖人は、見るに心なく、聞くに心なく、言ふに心なきゆへに、赤子の心を失はざる者は聖人なりと、孟子の玉へり。是又三重病人に似たり。聖人の教は、咎ある者はこれを正す。咎なき者を何ぞ正さん。扠汝に問はん。所々に庚申と云ふを見れば、見ざる聞かざる言はざるの猿なり。これを三疋合すれば、三重病人なるを、これは仏菩薩として人に拝す。然れば三重病人も、仏菩薩に近きものを伝授なくては、救ひがたしと云ふは、如何なることぞや。且つ円光大師は、念仏の外に、奥深きことを存ぜば、二尊の愍れみにはづれ、本願にもれ候べしと、一枚起請にありとかや。一枚起請にては、奥深きことはなしといひ、今汝が云へる所にては、伝にて大事を伝ふと云ふ。これ大師の教にたがふべし。儒には左様の箱伝授はいらず。

現代語訳

「見ず聞かず言わなければ咎はありません。咎のない者は赤子と同じです。赤子は教えなくても、無知の聖人です。そもそも聖人は、見ることにも聞くことにも話すことにも心をとどめないので、孟子は『赤子の心を失わない者は聖人である』とおっしゃいました。これもまた三重の病人に似ています。聖人の教えは、咎のある者を正すものです。咎のない者をどうして正す必要があるでしょう。さて、あなたに聞きたい。あちこちの庚申塚を見れば、見ざる聞かざる言わざるの猿です。三匹を合わせれば三重の病人なのに、人はこれを仏菩薩として拝んでいます。それなら、仏菩薩に近い三重の病人を、伝授が無ければ救えないと言うのはどういうことですか。しかも円光大師(法然)は『一枚起請文』で、念仏のほかに奥深いことを知っていると思えば二尊のあわれみに外れ、本願に漏れるだろうと書かれたそうです。大師は奥深いことは無いと言い、あなたは伝授で大事を伝えると言う。これは大師の教えに背くでしょう。儒学には、そのような箱入りの伝授は要りません。」

解説

梅岩は『孟子』離婁下の「大人は其の赤子の心を失はざる者なり」を、聖人の話として引き、咎のない者は正す必要がないと述べます。さらに庚申塚の三猿を持ち出し、見ざる聞かざる言わざるを仏菩薩として拝みながら、三重の病人を救うには秘伝が要ると言うのは矛盾だと突きます。決め手は浄土宗の開祖・法然の『一枚起請文』でした。念仏のほかに奥深いことは無いと開祖自身が書いているのです。相手の拠って立つ権威の言葉で、その主張を点検するという論じ方です。「箱伝授」は秘伝を箱に入れて売るような伝授を指す皮肉です。

この章句が説くこと

赤子孟子法然伝授三猿

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