都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
答、其救ルヽ罪ハ、何ニ因テ出來申候ヤ、曰、ソノ罪ト云ハ、物ヲ見テハ、見ルニ附著念ヲ發シ、聞ニツキテハ喜怒、言フニ附テハ、他ヲ議リ人ニ怒ラセ、其外種々ノ罪ヲ作ル、擧テ數ヘガタシ、如是ツミ咎ヲ、救ヒタスクルコトナリ、
新字:答、其救ルヽ罪ハ、何ニ因テ出来申候ヤ、曰、ソノ罪ト云ハ、物ヲ見テハ、見ルニ附著念ヲ発シ、聞ニツキテハ喜怒、言フニ附テハ、他ヲ議リ人ニ怒ラセ、其外種々ノ罪ヲ作ル、挙テ数ヘガタシ、如是ツミ咎ヲ、救ヒタスクルコトナリ、
書き下し
答ふ、其救はるゝ罪は、何に因りて出来申し候や。曰く、その罪と云ふは、物を見ては、見るに附き著念を発し、聞くにつきては喜怒、言ふに附きては、他を議り人に怒らせ、其外種々の罪を作る。挙げて数へがたし。是の如きつみ咎を、救ひたすくることなり。
現代語訳
梅岩「その救われる罪というのは、何によって生じるのですか。」僧「その罪とは、物を見れば見たものに執着の念を起こし、聞けば喜んだり怒ったりし、話せば人をそしって怒らせる、そのほかさまざまな罪を作ることです。数え上げることもできません。そうした罪やとがを救い助けるのです。」
解説
梅岩は、救われるべき罪とはそもそも何から生じるのかを問います。僧の答えは、見ること・聞くこと・話すことから執着や喜怒やそしりが生まれ、それが罪になるというものです。梅岩はこの答えを手がかりに、見ず聞かず言わない三重の病人には、そもそも罪が生じないはずだという反論を組み立てていきます。相手の定義を先に引き出し、その定義で相手の主張を検討するという問いの運び方です。議論では、言葉の意味を先に確かめておくことが決め手になります。
この章句が説くこと
罪執着定義問答見聞
関連する章句
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段答ふ、然らば此に君を弑し、親を弑したる者あらん。その罪逃るゝこと能はず。これをも助くべきや。これを助けなば、届かぬ所を、とゞかすと云ふものなり。助くること能はずといはゞ、三重病人も助くること能はざる証しなり。且つ三重病人は、見聞言ふことなければ罪なし。罪なき者に助けはいらず。其外に助くること有りや。
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段答ふ、思し召しよられ、斯く申さるゝこと、過分のいたりに候。扨其儒になき大事とは、如何なることに候や。曰く、先づ儒仏道ともに、勧善懲悪の教は、しれたることなれば、相替ることもなかるべし。如何としても、儒には教のとゞかざることあり。
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段見聞言はざれば咎なし。咎なき者は、赤子に同じ。赤子は教へざれども、無知の聖人なり。抑聖人は、見るに心なく、聞くに心なく、言ふに心なきゆへに、赤子の心を失はざる者は聖人なりと、孟子の玉へり。是又三重病人に似たり。聖人の教は、咎ある者はこれを正す。咎なき者を何ぞ正さん。扠汝に問はん。所々に庚申と云ふを見れば、見ざる聞かざる言はざるの猿なり。これを三疋合すれば、三重病人なるを、これは仏菩薩として人に拝す。然れば三重病人も、仏菩薩に近きものを伝授なくては、救ひがたしと云ふは、如何なることぞや。且つ円光大師は、念仏の外に、奥深きことを存ぜば、二尊の愍れみにはづれ、本願にもれ候べしと、一枚起請にありとかや。一枚起請にては、奥深きことはなしといひ、今汝が云へる所にては、伝にて大事を伝ふと云ふ。これ大師の教にたがふべし。儒には左様の箱伝授はいらず。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答ふ、仏法の表一通りを聞きて、悟ること能はずば、武帝に刑罰の者を訴ふるが如し。助くることを知りて、正すことを知らず、如何ぞ政行はれんや。曰く、左あれば忽ちに害あり。又悟道して行ふとも、仏法を用ひば、殺生はなるまじ。殺生はならずと云ひて、殺すべき咎ある者を助けなば、害あること明白なり。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段天下の民、尽く孝弟を行ふゆゑに、及ぶ所広大にして、利益ある所なり。事を以て論ぜば、仏氏たる人、罪咎ある者なればとて、死罪に行ふべきや。罪咎ある者にても、弟子にせんと云ひて、上よりもらひ、助けたく思ふは出家なり。慈愛の心ばかりにて、聖人の法なくして政道を行はば、反つて事の乱れとならん。武帝の如き君あらば、異端と譏るも宜なる哉。曰く、手前には、儒道にて身を修むる志なれば、我が為に問ふにはあらず。然れども、上より下に至るまで、仏法を信仰のことなり。雑ふる時に害あることならば、上には用ひ給はざる筈なり。如何なることぞや。
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段答ふ、教へてとゞかぬは、孔子の玉ふ下愚の徙らぬものと云ふことにて候や。曰く、その下愚は、目も見へ、耳も聞へ、口にも言ふ者なれば、教のとゞくことあり。下愚のものにても、仏前や神前に向ひ、これは神、これは仏ぞといへば、名は聞くなり。然れば是程の教とゞく所あり。如何しても教のとゞかぬ者に、とゞかする伝受あり。その伝受といふは、唖と聾と盲と、此三色を身に具へたる者は、先づ聾ゆへに、法を聞くことならず、盲なれば見ることならず、唖なれば言ふことならず。是の如き三重病人にても救ひ、往生さすることを伝受するなり。此を以て見れば、儒には闕けたる所あり。今世のこと計りにて、後世を救ふこと能はず。