都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
答、思召ヨラレ、斯ク申サルヽコト、過分ノイタリニ候、扨其儒ニナキ大事トハ、如何ナルコトニ候ヤ、曰、先儒佛道トモニ、勸善懲惡ノ敎ハ、シレタルコトナレバ、相替コトモナカルベシ、如何トシテモ、儒ニハ敎ノトヾカザルコトアリ、
新字:答、思召ヨラレ、斯ク申サルヽコト、過分ノイタリニ候、扨其儒ニナキ大事トハ、如何ナルコトニ候ヤ、曰、先儒仏道トモニ、勧善懲悪ノ教ハ、シレタルコトナレバ、相替コトモナカルベシ、如何トシテモ、儒ニハ教ノトヾカザルコトアリ、
書き下し
答ふ、思し召しよられ、斯く申さるゝこと、過分のいたりに候。扨其儒になき大事とは、如何なることに候や。曰く、先づ儒仏道ともに、勧善懲悪の教は、しれたることなれば、相替ることもなかるべし。如何としても、儒には教のとゞかざることあり。
現代語訳
梅岩は答えました。「お気にかけてそうおっしゃってくださるのは、身に余ることです。それで、儒学にない大事とはどういうことでしょうか。」僧「まず、善を勧め悪を懲らす教えは儒も仏も同じで、変わるところはありません。けれども儒学には、どうしても教えの届かないところがあるのです。」
解説
梅岩はまず礼を述べ、儒に無い大事とは何かと静かに問い返します。僧は、善を勧め悪を懲らす点では儒も仏も同じだと認めたうえで、儒には教えの届かない所があると主張します。論点が「教えがどこまで届くか」に絞られたことで、以後の問答は、教えを受ける側の条件をめぐって進みます。相手の主張の中で自分と一致する部分をまず確かめ、違いを一点に絞ってから議論するのは、意見の対立をほどくときの基本的な手順でもあります。
この章句が説くこと
勧善懲悪教え儒仏対話論点
関連する章句
-
『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段或浄土宗の僧、毎々参られしが、或時来りて曰く、汝は儒者の事なれば、仏法を勧むるにはあらねども、無常変易のならひなれば、又徒然の折からは、百遍二百遍づゝ成りとも、念仏を勉められなば、後世の便りとも成るべし。且つ儒にて、終に聞き及ばざるの大事も、仏法にはこれあれば申すことなり。
-
『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段天下の民、尽く孝弟を行ふゆゑに、及ぶ所広大にして、利益ある所なり。事を以て論ぜば、仏氏たる人、罪咎ある者なればとて、死罪に行ふべきや。罪咎ある者にても、弟子にせんと云ひて、上よりもらひ、助けたく思ふは出家なり。慈愛の心ばかりにて、聖人の法なくして政道を行はば、反つて事の乱れとならん。武帝の如き君あらば、異端と譏るも宜なる哉。曰く、手前には、儒道にて身を修むる志なれば、我が為に問ふにはあらず。然れども、上より下に至るまで、仏法を信仰のことなり。雑ふる時に害あることならば、上には用ひ給はざる筈なり。如何なることぞや。
-
『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段答ふ、教へてとゞかぬは、孔子の玉ふ下愚の徙らぬものと云ふことにて候や。曰く、その下愚は、目も見へ、耳も聞へ、口にも言ふ者なれば、教のとゞくことあり。下愚のものにても、仏前や神前に向ひ、これは神、これは仏ぞといへば、名は聞くなり。然れば是程の教とゞく所あり。如何しても教のとゞかぬ者に、とゞかする伝受あり。その伝受といふは、唖と聾と盲と、此三色を身に具へたる者は、先づ聾ゆへに、法を聞くことならず、盲なれば見ることならず、唖なれば言ふことならず。是の如き三重病人にても救ひ、往生さすることを伝受するなり。此を以て見れば、儒には闕けたる所あり。今世のこと計りにて、後世を救ふこと能はず。
-
『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段答ふ、汝の如く、聞き得ざる者あれば害をなす。聞き得し人には、何ぞ害有らん。曰く、汝は交へ用ふるときは、害ありといはるるゆゑに、問ふことなり。答ふ、我がいふ所は左には非ず。仏法の用ひやうを知らざれば、害あることを云ふ。曰く、知ると知らざると、用ひやうに二品あるは、いかなることぞや。
-
『都鄙問答』卷之二・禪僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段曰、知らざるにはあらず。如何と云に、仏法は先五戒を有を第一とす。其中に殺生戒を重き戒とす。儒家にて云ば、五常の仁の如し。儒家に於て、仁を害者を善とすることありや。汝は儒を説といへども、いまだ仁の意を知らざれば、聖賢の本意に闇し。
-
『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段曰く、汝がいへる如くならば、心を得る為めには、仏法を雑へ用ふるも、然るべきと聞こゆ。然れども、仏法は我が業にあらざれば、同じくは儒にて知り得たく候。仏法を除き得ることは、なしがたきことにて候や。答ふ、孟子曰く、惻隠の心無きは人に非ず、羞悪の心無きは人に非ずと。汝最前より、心を得ざるを苦しんで赤面し、不善を恥づるは、即ち羞悪の心なり。其の羞悪の心を推して知らば、仁義の良心に至るべし。何ぞ仏法によることあらん。我が心を得れば、儒仏の名を離れたるものなり。譬へば此に一人の鏡磨ぐ者あらん。上手ならば、鏡を磨ぎに遣はすべし、磨ぎ種になにを用ふと問ふべきや。儒仏の法を用ふるもかくの如し、我が心を琢く磨ぎ種なり。琢きて後に、磨ぎ種に泥むこそをかしけれ。縦ひ儒家にて学ぶといふとも、